ザルツブルク音楽祭の関係者は、出演している優れた指揮者たちの中から、新しい偉大なモーツァルト指揮者が出てきたことを悟ります。私たちは同じ夏に、大ホールでフリッチャイが指揮するベートーヴェン、ブラームス、そしてコダーイの作品からなる管弦楽演奏会も体験する幸運に恵まれました。私たちは、フリッチャイが次のシーズンには歌劇《魔笛》を上演することを約束してくれたのでとても喜びましたが、それは1963年におけるモーツァルト作品の上演計画の重要な柱となる物でした。
(ベルンハルト・パウムガルトナー「フェレンツ・フリッチャイとザルツブルク音楽祭」)
~フェレンツ・フリッチャイ著/フリードリヒ・ヘルツフェルト編/野口剛夫(訳・編)「伝説の指揮者 フェレンツ・フリッチャイ 自伝・音楽論・讃辞・記録・写真」(アルファベータブックス)P181
1961年夏の歌劇「イドメネオ」新演出の舞台が大成功を収めたフリッチャイにすぐにオーケストラ・コンサートの追加公演の開催が求められたのは周知の事実だ。
第1楽章アレグロ・ノン・トロッポ冒頭、フリッチャイの唸り声、否、鼻歌が記録される、気合いの入ったブラームス。ザルツブルク音楽祭での実況録音(祝祭大劇場)。
古い録音ながら音楽は隅から隅まで熱い。大自然の叡智あふれる交響曲第2番が、強烈なパッション伴なったあまりに人間的な音楽に変貌しているところが興味深い。
怒涛の終楽章アレグロ・コン・スピーリトに注目したい。恐るべき集中力と猛烈に強打され、有機的な轟きを醸すティンパニの怒号が炸裂する様にフリッチャイの大いなる才能を思う。
一方、手兵ベルリン放送響とのハイドンの主題による変奏曲に垣間見る生き生きとした蠢き。聴き慣れたこの音楽が、何と革新的な響きと音調に包まれていたのかということが、この演奏を聴いてあらためて理解できたように思う。テンポの伸縮、絶妙なるアゴーギクの様子は、まるでヨハネス・ブラームスが快哉を叫ぶかのようだ。
マルグリット・ヴェーバーを独奏に据えたフランクの力強さ、美しさ。
セザール・フランク後期の傑作が意味深く奏される様子にフリッチャイの覚悟を思う。
いまや私たちは全く新しい人に直面する。ここではフランク先生は、はっきりした主義を持つ芸術家となって現れる。先生の才能は第一期には未だ粗削りで、その作品も試作の域を出なかった。また、第二期の作品は夢幻的であって、新しい地平線に向かおうとしたものにすぎなかった。ところが先生は、いまやこれらの時期を通り過ぎて完全な自覚に到達され、自分の欲するものが何であるかを自分で知るにいたられた。そして隔世遺伝によって与えられた才能が反省と経験とに結びつき、いまや先生は大胆にあらゆることをなし、無造作に充実した傑作を創ることができるようになられた。
~ヴァンサン・ダンディ/佐藤浩訳「セザール・フランク」(アルファベータブックス)P148
弟子であったダンディの言葉は多少引いてみる必要もあるかと思うが、それでも1872年以降のフランクの創造力には掛け値なしに感嘆の思いが募る。
幽玄なフレーズや音の流れ、それを包み込む(ドイツ的な)堅牢な構成と大いなる信仰の心が僕たち聴く者の精神を刺激する。