レヴァイン指揮メトロポリタン歌劇場の「パルジファル」(1992.3Live)を観て思ふ

wagner_parsifal_levine_met_1992141第3幕の、パルジファルがいわばイニシエーションを受ける「聖金曜日の奇蹟」のシーンは、「パルジファル」のクライマックスということもあり音楽共々極めて感動的だが、その伏線となる第2幕のクンドリとのやり取りの中でパルジファルが覚醒する場面こそこの楽劇の最重要シーンであると僕は思う。

酷いひと!
あなたの心は
他人の痛みしか感じないの?

だったら、私の痛みも感じてちょうだい!
あなたが救済者なら
どうしていけないの、意地悪!
ひとつに結ばれて、私にも救いをもたらすのが。
日本ワーグナー協会監修/三宅幸夫・池上純一編訳「パルジファル」P73

クンドリの内にあるのは依存と執着。なるほど、依存から発せられる「愛情」というものは必ずその裏に「憎悪」が潜む。愛と憎悪が表裏だというのは、その源にエゴというものがある場合に限ってのことだ。目覚めたパルジファルは応える。

未来永劫
私ともども、お前まで劫罰に沈むことになろう、
一瞬たりとも
使命を忘れて
その腕に抱かれたりすれば。
私が遣わされたのは、お前を救うためでもある。
それには、お前も恋情を断たねばならぬ。
お前の苦しみを終わらせる命の水は
苦しみの源から湧き出はしない。
その泉をふさがぬうちは
けして救いには与れない。
~同上書P75

実際にはこの時、クンドリは魔術師クリングゾールの催眠にかかっているのだが、現実世界において僕たちもある意味様々な洗脳を受けており、まさにこのクンドリのような状態であることをワーグナーは示唆する。ひとりひとり真に自由になることがこの世に生きる課題なんだと。
ここがあってこその第3幕の、パルジファル、グルネマンツ、そしてクンドリによる「聖金曜日の奇蹟」。クルト・モルのグルネマンツの言葉が重い。

罪を悔い改めた人々の涙が、
この日、聖なる露となって
野や畑をうるおし
これほどゆたかな命を育んだのです。
救い主の御跡を慕う生きとし生けるものは
喜びをかみしめ
祈りを捧げようとしています。
十字架上の救い主をじかに見ることのかなわぬ彼らは
救いに与った人間を仰ぎ見るのです。
罪の重荷と恐怖から解き放たれ
愛ゆえの神の犠牲によって浄福に包まれた人間を。
野の草花にも、わかるのです。
今日ばかりは人の足に踏みにじられることはないと。
神が広大無量の心で人間を憐れみ
人間のために苦しまれたように、
今日は人間も慈愛の心で
草花を踏みつけぬよう、心して足を運びます。
すると地に花を咲かせ、はかなく枯れゆくものたちは
こぞって感謝を捧げるのです。
~同上書P97

晩年にワーグナーが「再生論」において訴えた「共苦」の思想がここに刻まれる。生きとし生けるものを決して殺してはならぬと(最終的には人類が菜食になるべきと訴えた)。
そして、正午の鐘の音ととともに、一行はアンフォルタス王を救うべくその道に向かうのである。これこそちょうど甲午の時から乙未の時へと移り変わった現在へのメッセージか?!

・ワーグナー:舞台神聖祭典劇「パルジファル」
ベルント・ヴァイクル(アンフォルタス、バリトン)
ヤン=ヘンドリク・ロータリング(ティトゥレル、バス)
クルト・モル(グルネマンツ、バス)
ジークフリート・イェルザレム(パルジファル、テノール)
フランツ・マツーラ(クリングゾール、バス)
ヴァルトラウト・マイアー(クンドリ、メゾソプラノ)、ほか
メトロポリタン歌劇場合唱団
ジェイムズ・レヴァイン指揮メトロポリタン歌劇場管弦楽団
オットー・シェンク(演出)(1992.3Live)

1992年当時のワーグナー歌手揃い踏み。クルト・モル演じるグルネマンツの何という慈しみ!そして、クンドリに扮するヴァルトラウト・マイアーの巧さ!もちろんジークフリート・イェルザレムの声は健在。
今となってはカメラワークや映像そのものの古さが気になるが、オットー・シェンクによるオーソドックスな、ト書に忠実な演出がやっぱり僕の好み。
それにしても興味深いのは、ワーグナーが早1871年の時点でこの「パルジファル」につながる思想をコジマに語っていること。

食事の際、わたしは以前に参列したことのある着衣式の話をした。そこから話題は修道教団に及んだ。修道士たちは、教会は政治の僕であり、敬虔な人間は黙ってそこから去るべきだという思いを吹き込まれている、とリヒャルトは言う。そして、こう続けた。「そもそも聖者はキリスト以前から存在していた。動詞が名詞より早く生まれたようにね。つまり発生的には、生から解脱を望む魂の恍惚状態が先にあって、しかるのちに、罪もなく犠牲に捧げられたイエスを象徴として生み出したのだ。それにしても、この種の問題をきちんと把握できぬまま、分析のメスで切り刻もうなどというのは愚の骨頂だ」。
1871年10月18日水曜日
三光長治・池上純一・池上弘子訳「コジマの日記2」(東海大学出版会)P596

「動詞が名詞より早く生まれたようにね」という表現に納得。なるほど、村上和雄先生が「サムシング・グレート」と呼んだものをワーグナーはそう表現した。彼は音楽的にだけでなく、あらゆる意味で巨人だったということ。

 

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