世間から金の亡者とあだ名されたシュトラウスも、その創造力は天才の域を誇った。そこには常に革新があった。物語をかくも見事に音化する力量よ。
「歓楽の嵐」の導入で始まり、最後は死に絶えてゆくドン・ファンの放埓さと残るものの何もない悲哀が大管弦楽によって表現される様子は実に画期的だ。
スコア冒頭に掲載されたニコラウス・レーナウの詩。
自由の国アメリカに憧れるも現実に触れ、失望して欧州に戻った彼は、友人の妻との恋愛関係に悩み自殺を図る。理想と現実の間で苦悩した芸術家の願望はドン・ファンの姿に投影される。
私を駆り立てた、美しい嵐も、
今は鎮まり、静寂だけが残った。
あらゆる願いも、希望も、死に絶えたかに見える。
あるいは、唾棄すべき天からの閃光が、
私の愛の力を打ち砕いたのか、
突如、世界は荒涼として、闇に包まれた。
あるいはまた—薪は尽き果て、
炉の上は冷たく暗くなろう。
~田代櫂著「リヒャルト・シュトラウス—鳴り響く落日」(春秋社)P86
すべては水泡と化す。
フェレンツ・フリッチャイの指揮する「ドン・ファン」は、どちらかというと枯れた解釈だ(ベルリンはティタニア・パラストでのライヴ録音)。もっと脂ぎった、濃厚な、あるいはデモーニッシュな「ドン・ファン」も素晴らしいが、こういう冷めた(?)愛の力を失った(ようなドライな—それは演奏会場の音響効果のせいもあろうが)「ドン・ファン」も素敵だ。それゆえか、フリッチャイの指揮する晩年の「クラリネット、バスーン、弦楽合奏とハープのための二重小協奏曲」の枯れた味わいが僕の心に一層響く。
いかにもドイツ的な「ブルレスケ」という名の協奏曲は、ロベルト・シューマンの影響下にあろう。
ベルリン・フィルとの「ティル」がまた名演奏。シュトラウスはもともと「ティル」をオペラ化しようとしていたそうだが、それは叶わなかったものの交響詩として生まれ変わった音楽は、まるで斉公活佛のようないたずらぶりを色香たっぷりに表現する見事なもの。
ちなみに、シュトラウスのこのオペラにまつわるノートには次のようにあるそうだ。
醜いティル—人間嫌いの—は、初めて世界に愚行を持ち込んだ『人間』のいない自然を愛する。・・・世界の嫌悪者ティル、不毛な懐疑家ティル、哄笑する哲学者ティル
~同上書P118
僕はこれまでティル・オイレンシュピーゲルを誤解していたかもしれない。