愛の哀、または哀の愛

僕が本格的にクラシック音楽にのめり込むきっかけを作った曲はモーツァルトのト短調交響曲。メロディがポピュラー音楽に転用されたり、電話の保留音などにも使われたりしているので、ちょっとしたクラシック好きだけでなく普段クラシックなど聴かない連中でも第1楽章のあの「憂い」に満ちた旋律は知っていよう。
毎月のことだが、「早わかり古典音楽講座」の効用とでも言おうか、音楽評論家かはたまた演奏家かと自分でも勘違いしそうなほどその月にとりあげる作曲家を相当集中的に聴く羽目になり、若い頃散々聴いた「有名曲」を重箱をひっくり返すように隅々までじっくりと聴いている。しかし、今までとは多少違った観点から耳を傾けるからだろうか、もう何百回と聴いて飽き飽きしたと思っていたような曲がとても新鮮に響き、今日など連続してしかもかなり集中して2回も聴いてしまった。

モーツァルト:交響曲第40番ト短調K.550
ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団

モーツァルト晩年の三大交響曲の一つだが、そもそも音楽の持つデモーニッシュなエネルギーと「哀しみ」とも「寂しさ」ともつかないペシミスティックな情感はおよそモーツァルトらしくない。しかし、楽章相互が緊密にリンクし、フィナーレにおいてますます「心の深淵」に進んでゆく様は圧倒的である。文献を紐解くとモーツァルトの二面性を論じている文章に時折出くわすが、まさしく「永遠の少年」モーツァルトに潜む偉大なる「翳」の部分の表出なのかもしれない。

ところで、数多あるこの楽曲の音盤の中で第一は上記ワルター盤。彼はウィーン・フィルニューヨーク・フィルとの名盤も存在するが、最晩年のコロンビア響盤が絶対。音がよく、しかも提示部の反復をしない、この均整のとれたバランス感に優れたレコードは他の追随を許さないように思う。

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