疾走する哀しみ

またしてもフルトヴェングラーのモーツァルト。つい昨日もザルツブルク音楽祭ライブの「魔笛」について書いたが、今日は例の40番について感じたことを書く。
まずは驚いた。そして、感動した。
どういうことか?
そう、フルトヴェングラーのモーツァルトはいただけないという一部の風説に惑わされ、ほとんど何十年も無視していたのだ。「魔笛」についても然り。「不惑」の年を越えて3年。「惑わされない」ようになるには相応の年にならないと無理ということか・・・。やはり自分自身の耳と感性を大事にしなくては。

モーツァルト:交響曲第40番ト短調K.550
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団


1948年12月録音SP盤復刻のCD。しかも僕の所有しているのはブライトクランク(擬似ステレオ)盤。
第1楽章のおよそ一般的な40番らしくないまさに「疾走する」テーマ。何十億年という宇宙の歴史から俯瞰したとき、我々個人の「人生」の何と小さいことか。ほんの一瞬の出来事といえば出来事。その刹那的でちっぽけな「生」に拘ることの何と愚かなことか・・・。人間のもつ「エゴ(我)」の小ささを晩年のモーツァルトが「哀しみ」として表現した「こころ」をフルトヴェングラーが初めて表現したのではないかと思わせるような究極的な名演奏なのではないかと初めて気づいてしまった。フィナーレの怖ろしいばかりの嵐の凄まじさもいかばかりのものか。
これはおそらくわかる人にしかわからない傑作録音である。

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