辻邦生の旅行記が面白い。
1960年代後半当時、ソヴィエト連邦を旅行した日本人はそんなに多くはなかったはずだ。
1968(昭和43)年の埴谷雄髙さんとの旅の思い出には次のようにある。
たしかドストエフスキー博物館を苦心の末訪ねて、ようやくホテルに戻ってきたときのことだったと思う。埴谷さんがレニングラード(現在は昔のサンクトペテルブルクの名に戻ったが、書いた当時のままとする)の文学地図を出して、「こんどはこれがあるから楽に歩けますよ」と言った。それはドストエフスキー全集か何かの付録についていた地図で、ラスコーリニコフの住んでいた家のモデルとか。センナヤ広場とか、実際のドストエフスキーの家とかが図示されていたのである。
「これは便利なものですね」
ぼくはそう言って、それを丹念に眺めた。
かつてのペテルスブルグはこんなふうになっていたのか。ドストエフスキーによくヴァシリエフスキー島とか運河とかペトロパヴロヴィチ要塞とか出てくるが、こんな地形だったのか、こんなところにあったのか―そんなことを考えながら、ぼくはこの地図をつくづくと見入ったのだった。
ぼくはそのときそれを机の上に置いたのか、埴谷さんに返したのか、まったく記憶にない。すくなくともそれを持って外に出るということはなかったし、別の場所へ置き忘れるということも考えられなかった。が、肝心のレニングラードに着いたとき、その文学地図がどこにもないのに気がついた。
「ロシア 幻想の旅から」
~「辻邦生全集17」(新潮社)P57-58
初のソ連への旅は大変に不愉快極まりなく、苦痛のものだったらしい。その上、他人の大切なモノを失くすという不始末なのだからストレスも並大抵でなかったとみる。結局文学地図はどうなったのか?
そのあと、ソヴィエト事情に詳しい人から、地図の類は、ホテルで取り上げられることはしばしばあると聞かされて、ぼくは愕然とした。
「あの国はいまでもちゃんとした地図を出していないんですよ」とその人は言った。「地図があっても、町も川も港も実際とは違って記入されているんです。こんな笑話がありますよ。ソヴィエトの地理学者にある人が訊ねたんです。〈こんな状態ではあなたの研究に差しつかえるでしょう〉って。すると地理学者が答えたそうです。〈いいえ、別にどうということはありません。私の専門はアメリカですから〉」
しかしぼくは笑えなかった。笑えないどころか、突然、レニングラードのホテルの窓から外を見ていた埴谷さんの白い顔を思いだした。あの顔に浮かんでいた悲哀と諦念の表情は、この国のそうした慣行を見通した人のものだったのか。ぼくはそう思うと同時に、何とも言いがたい別個の悲しみが心の奥を通りぬけてゆくのを感じた。
~同上書P59
慣行の差は、国家のそもそものシステムの違いから生じたものだ。
環境が人々の心に与える影響の大きさに愕然とする。
仮の世界に翻弄されないのは本性のみだとするなら、いかに心静かであることが重要なことか。
ショスタコーヴィチは、自身のそういう体験を音楽で描写した。
ひょっとするとそれは彼の想像によるものかもしれない。
何にせよ芸術作品としてアウトプットし、昇華することが必要なのだが、一方でその作品をどう判断するかは聴き手の問題であり、またそれを享受する後世の僕たちの問題でもある。
レーニンに捧げられた交響曲。あるいは、十月革命を記念して創造された交響曲は、赤いレッテルを張られ、今でもステージにかけられることが多くはないと聞く。作曲者の意図など当てにはならない。相応の時間の経過があり、音楽作品として残り得たものは、この際先入観なしに受け容れ、聴いてみた方が良い。あるいは、読み替えだって良し。
21世紀は、フランス革命やロシア革命などという人の浅薄な力による転回などというレベルのものでなく、もちろん無血の、真の世界平和を成就するためのパラダイム・シフトが起こるであろう時代だから。
・ショスタコーヴィチ:交響曲第12番ニ短調作品112「1917年」(1960-61)
ルドルフ・バルシャイ指揮ケルン放送交響楽団(1995.9.11&15Live)
胸の空くような、劇的な演奏はバルシャイならでは。
絶対音楽として無心に耳を傾ければ、ショスタコーヴィチのそれまでのイディオムも散見され、興味深い。革命歌などの引用については目を瞑ってしまおう。
それほどに、音楽には強力な、強烈なエネルギーが漲っている。
個人的には第3楽章「アヴローラ」から終楽章「人類の夜明け」が圧倒的に素晴らしいと思う。強靭なショスタコーヴィチのオーケストレーションを、ただならぬ感興で奏するオーケストラと、思いの丈をぶつける指揮者のシナジー。作曲者との目に見えない絆がこれほどまでに堅固に表現された演奏が他にあろうか(初演者ムラヴィンスキーといえどもここまではなかったように思う)。