
こんなにすごい舞台だったのかと今さらながら気づいた。
もちろん僕が確認できたのは音のみなんだけれど、第1幕から熱気と生命力に溢れ、時間があったという間に過ぎて行く。
1969年のザルツブルク音楽祭。
シュトラウスの原点回帰たる「ばらの騎士」の全編にわたる恍惚と幸福感。
やがて破滅へと向かって行く祖国ドイツへの(未来を予言するかのような)諦念。
カール・ベームの生々しい棒がうねる。
1935年から亡くなる1949年までのあいだに、シュトラウスは驚くほどその創造力を取り戻した。彼の回復は狂った大量虐殺を背景にして起こったわけだが、トーマス・マンが『ファウスト博士』で示しているのもこれと同じ類いの逆説である。シュトラウスの場合は、外の出来事が意識的ないし無意識的に影響を与えたという直接的な証拠はない。ありそうに思われるのは、帝国音楽局から不面目な解任が、彼を基本原則に戻らせたということである。オペラや交響詩において、シュトラウスはしばしば力強い仕掛けを用いて、世俗的な幻想をはぎとられ、傲慢な態度を改めて諦観へと変貌していく孤独な人物を描いている。《グントラム》では、主人公は共同体を出て孤独な道へと歩み去る。《ばらの騎士》では、元帥夫人が家具ごしに冷たい空っぽの空間の方を見やるが、そこでは刻一刻と冷酷に時間が過ぎていく。《影のない女》では、おとぎ話の皇帝が石に変わってしまう恐怖に直面する。
~アレックス・ロス著/柿沼敏江訳「20世紀を語る音楽2」(みすず書房)P347
孤独を埋めるための愛は真に愛といえるのか。
画一化が懸念される中、世界では個性が重視され、その分個々の分離の問題が取り沙汰されるようになってゆく。しかし今や、つながり、共創が主題とされる時代にようやく入り、冷たい孤独を嫌い、人々は心底からの愛情を求めるようになった。
音楽は人と人とのつながりを喚起する。
熱い、とにかく熱い。何より音楽がリアルなのだ。
引き締まったテンポで精悍に進むカラヤンとは風趣も音調も大いに異なるのが興味深い。
このときの公演は、何と言っても第1幕が鍵であったように思われる。まずは冒頭、マルシャリン(ルートヴィヒ)とオクタヴィアン(トロヤノス)のやりとりの充実度!
天使よ!まさか!天にも昇るほどうれしいんだ、
あなたがどんなかを知っているのが僕だけだってことが。
誰も知らないんだよ!一人も知らないんだ。
あなたを、あなたを、あなたを!
この「あなた」ってなに?「あなたと僕」って? 意味があるんだろうか?
確かに言葉で、単なる言葉でしょう?ねえ、そうでしょう!
でも、その中には何かがあるんだ。
目がくらむもの、引っぱるもの、あこがれせき立てるもの、焦がし燃えるもの。
僕の手が今あなたの手に重なるように、あなたがほしいこと、
あなたにすがりつくこと、それが僕、それがあなたに望むこと、
でもこの僕はこのあなたの中に消えてしまう。
~「オペラ対訳プロジェクト」
オクタヴィアンの艶やかでいたずらな本心を綴るタチヤナ・トロヤノスの巧さ!
「ばらの騎士」の物語は紆余曲折を経ながら、最後は別れを悲しむマルシャリンが、誠意と祝福とともにオクタヴィアンをゾフィーのもとに向かわせる。第3幕最終場に結実したそのシーン、すなわちオクタヴィアン、マルシャリン、ゾフィーによる三重唱のあまりの美しさと臨場感に、1969年のザルツブルク音楽祭でのライヴの凄味が伝わる。