デラ・カーザ エーデルマン ユリナッチ クンツ ギューデン カラヤン指揮ウィーン・フィル R.シュトラウス 歌劇「ばらの騎士」(1960.7.26Live)

ヴィーン的なものとミュンヒェン的なもの、貴族的なものと庶民的なもの、マルシャリンの高貴さとオックスの野卑さ・・・。「薔薇の騎士」はこの両足の上に立っている。そしてこれがこのオペラの豊かさでもある。
田代櫂著「リヒャルト・シュトラウス—鳴り響く落日」(春秋社)P178

善因善果、悪因悪果。
業の力は大きく、簡単に避けられるものでない。
ならば、余計な原因の種を蒔かないことに限る。
特に男女の色恋にまつわる因縁は恐ろしい。

歌劇「ばらの騎士」は、因縁を避けることに(深層で)気づいたマルシャリンの物語だと僕には思える。日常のドタバタを借りて、大事なことに気づき、手放したマルシャリンの心は軽い。終幕の三重奏の穢れない美しさに僕はリヒャルト・シュトラウスの天才を思う。そして、台本を書いたフーゴー・フォン・ホーフマンスタールの智慧を思う。

シュトラウスとホーフマンスタールのやりとりは、エゴとエゴとのぶつかり合いのようなものだが、それあってこそ、まさにアウフヘーベンというヘーゲルの弁証法による発展的統一によって成立した歌劇が「ばらの騎士」だといえる。

シュトラウスはまったく、信じられないほどがさつな男だ。ひどく通俗的でキッチュな傾向を潜めている。彼が私に要求する、ちょっとした変更や拡張などは、常にそんな方向でなされる。たとえばオックスのアリアでは、私は君が書いてきた通りの表情を思い浮かべていた。ところがシュトラウスは、ひたすらプレスティッシモで彼をわめかせるのだ。テクストを変更したことさえ何の意味もなく、音楽と言葉がしっくり合うことさえまれだ。『近くに干し草の山がなきゃな』のところでは、囁くかわりに『ほしくさああああ(フォルティッシモで!)』とわめかせる。それを除けば第1幕には、オーケストラの輝きはなくとも、ピアノだけでも十分素敵で、コミカルな、メロディアスな場面が数多くある。奇妙に複雑な性格だが、品の悪さが危険なほどたやすく地下水のようにこみ上げてくるのだ。
(1909年6月12日付、ホーフマンスタールからケスラー宛)
~同上書P178

ホーフマンスタールのぼやきは低俗趣味のシュトラウスへの啖呵のようなものだが、それに対してシュトラウス本人は全く譲る気配がない。

シュトラウスは率直に意見を述べ、仮借なく批判し、変更を要求した。彼は聴衆が何を求めているのかを、いつもホーフマンスタールに意識させた。オペラは第2幕の効果が弱いと失敗する、聴衆は第3幕待てないのだ、とシュトラウスは書いている。彼は劇の運びを緊密にするために、オックスとオクタヴィアンの決闘の場面を加えるよう提案した。09年7月11日、ホーフマンスタールはこれを了承する。決闘の場面ではシュトラウスの要求通り、滑稽さが付け加えられた。
~同上書P178

ホーフマンスタールは真に芸術家だった。一方、シュトラウスには天性の商売人気質があり、ヘンデル同様プロデューサー気質に長けていたのだと思う。リヒャルト・シュトラウス×フーゴー・フォン・ホーフマンスタールのシナジーの最たるものが歌劇「ばらの騎士」なのである。
鬼気迫る第2幕、オックスとオクタヴィアンの決闘の場面は、シュトラウスの想像通りの効果をもたらす。

・リヒャルト・シュトラウス:歌劇「ばらの騎士」作品59(1909-10)
リーザ・デラ・カーザ(元帥ヴェルデンベルク侯爵夫人、ソプラノ)
オットー・エーデルマン(オックス・フォン・レヒェナウ男爵、バス)
セーナ・ユリナッチ(オクタヴィアン、メゾソプラノ)
エーリヒ・クンツ(新興貴族フォン・ファニナル、バリトン)
ヒルデ・ギューデン(その娘ゾフィー、ソプラノ)
ユーディット・ヘルヴィヒ(ゾフィーの侍女頭マリアンネ、ソプラノ)
レナート・エルコラーニ(ヴァルツァッキ、テノール)
ヒルデ・レッセル=マイダン(その連れの女アンニーナ、アルト)
アロイス・ペルネルストルファー(警部、バス)
エーリヒ・マイクト(侯爵家の家令、テノール)
ジークフリート・ルドルフ・フレーゼ(ファニナル家の家令、テノール)
ヨーゼフ・クナップ(公証人、バス)
フリッツ・シュペールバウアー(料理屋の主人、テノール)
ジュゼッペ・ザンピエリ(歌手、テノール)
ウィーン国立歌劇場合唱団
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1960.7.26Live)

恍惚の第3幕フィナーレ(オクタヴィアンの「マリー・テレーズ」という呼びかけで始まる三重唱「私が心に誓ったのは」からゾフィーとオクタヴィアンの愛の二重唱「これは夢かしら」)がやっぱり美しい!

1960年のザルツブルク音楽祭は祝祭大劇場での実況録音。
第1幕の管弦楽の入りから気迫に満ち、実に音楽的で、嫌が応にも期待を煽る演奏。絶頂期のカラヤンの力量を見事に反映した貴重な記録だと思う。

これは夢、本当ではありえないわ、私たち二人が一緒にいるなんて、ずっと、永遠に一緒にいるなんて!(ゾフィー)

時の象徴たる銀の薔薇。永遠、普遍の銀の薔薇を届けるように言いつけられた黒人の小姓が、全曲の最後に登場し、ゾフィーの落したハンカチを拾うシーンの意味深さ。夢は夢で終わるのではない。実際のところ、すべては夢の中。


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ルートヴィヒ アダム トロヤノス ヴィーナー マティス ベーム指揮ウィーン・フィル R.シュトラウス 歌劇「ばらの騎士」(1969.7.27Live) | アレグロ・コン・ブリオ

[…] 引き締まったテンポで精悍に進むカラヤンとは風趣も音調も大いに異なるのが興味深い。このときの公演は、何と言っても第1幕が鍵であったように思われる。まずは冒頭、マルシャリン […]

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