オイストラフ クリュイタンス指揮フランス国立放送管 ベートーヴェン ヴァイオリン協奏曲(1958.11録音)

「辻邦生全集」月報として、「『絶えず書く』人と暮らして」という辻佐保子さんの小さなエッセイがある。小説家として立ったばかりの辻の、創作のための旅行にまつわるエピソードが興味深い。

もっとも本質的な意味で創作の原動力になったのは、最初の留学時代の列車の「旅」だった。その頃の貧乏旅行では、普通列車やバスを乗り継ぎ、ユース・ホステルに泊り、バスがなければ荷物を担いで歩くのも平気だった。1958年の最初のスペイン旅行では、田舎の食堂やホテルにはまだフランコ総統の写真が貼ってあり、出稼ぎ帰りの庶民たちで満員の車両には、剣つき鉄砲と兜型の制帽で武装した憲兵が必ず同乗していた。その翌年のシチリアの旅では、世界宗教会議がカターニアの町で開催されており、修道院の厚意でようやく夕食だけは出して貰ったものの、宿泊する場所がどこにも無く駅の待合室のベンチで一夜を明かした。翌日は、次の列車には絶対に間に合わないという駅長の大声を無視して、アグリジェントの神殿遺蹟まで、サボテンの茂る野原を大急ぎで走って往復した。ドイツ旅行の帰途、バンベルク大聖堂のゴシック彫刻を見に寄ったときには、原稿の締切が気にかかり、どうしても次の列車に乗ってパリに帰るといってきかなかった。韋駄天のように駅に向かって中心街を走りぬける主人の姿を、大勢の人たちが笑いながら眺めていた。諦めたように後からとぼとぼ歩いてゆく私を見て、夫婦喧嘩でもしたのだろうと思ったに違いない。二組の着替えだけで一夏の長い旅を過ごしてパリに帰りつき、駅の屑籠に履きつぶしたサンダルや汗だらけの麦藁帽子を捨てるのもいい気分だった。
「辻邦生全集」(新潮社)月報2005.10(17)

若さゆえの無鉄砲、というか、体力に任せてやりたいことをやりたいようにできた作家のバイタリティを思う。そして、言葉は次のように続くのだ。

ところが、二人とも常勤のポストについてからは、経済的な余裕と反比例するように、勝手気ままに外国を放浪することはできなくなった。それでも、夏休みの前後に集中講義をしたりして、二、三カ月の海外脱出を試みることは可能であり、日常の雑事から解放され、私たちの感受性に新鮮な栄養を補給するには欠かせない毎年の行事となった。
~同上月報

得るものがあれば失うものあり。
世界はバランスの中にあることを思う。
それにしても欧州のあちこちを鉄道で走り回った辻夫妻の機動力、というか、好奇心に感動する。そして、行く先々で体験した人・事・物が小説やエッセイに昇華されるその顛末は、芸術家の鑑を記録する意味で面白い。

ベートーヴェンを聴いた。
名作ヴァイオリン協奏曲が世に出るにあたってのクレメンティ社とのやり取りがまた興味深い。ベートーヴェンさえもが、作品を世に出すにあたって数々の苦労があり、また駆け引きがあったのだ。

当時、イギリスでの出版権を得たムツィオ・クレメンティは次のように書いている。

ちょっとした駆け引きにより、そして面目を失うことなく、私はついにあのお偉い美の化身、ベートーヴェンを完全に征服しました。・・・(中略)・・・私は彼と、3弦楽四重奏曲、シンフォニー、序曲、ヴァイオリン・コンチェルト、それはすばらしいもので、それを私の要求により彼はピアノ(付加鍵あり、またはなし)用に編曲する、更にピアノ・コンチェルト。以上すべてに対して私たちは彼に200ポンドを支払うことになる。しかし所有権はブリテン領内だけです。
大崎滋生著「ベートーヴェン像再構築2」(春秋社)P659

「絶えず音楽を書く」ベートーヴェンも、生きるためにあちこち奔走したことがわかる。

・ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品61
ダヴィッド・オイストラフ(ヴァイオリン)
アンドレ・クリュイタンス指揮フランス国立放送管弦楽団(1958.11.8&10録音)

ウォルター・レッグによる、パリはサル・ワグラムでの名録音。
オイストラフの豊饒なヴァイオリンの音色が昔から好きだった。カデンツァはフリッツ・クライスラー作のもの。
第1楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポは、管弦楽提示部から壮大かつ優雅な印象だが、ヴァイオリン独奏の入りから絶品。ベートーヴェンが恍惚となる。また、第2楽章ラルゲットの、静かに祈る音楽の懐かしさ。終楽章ロンド(アレグロ)は、オイストラフの音楽への奉仕、真摯さ、誠意に溢れる。何という喜び!
隅から隅まで実に音楽的で、何と開放的な音なのだろうとあらためてオイストラフの天才を僕は思った。


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