4手ピアノによる「フィデリオ」

オーケストラ・ダスビダーニャによるレニングラード交響曲の前夜祭ということで、いつも拙ブログにコメントをいただく雅之さんとサシのオフ会。
都合5時間弱。やっぱり対面して話をすると尽きない。それぞれがそれぞれの1年を総括して勝手に語る。それに対してこれまたそれぞれが勝手に合いの手を入れる。いかにも息の合う真に不思議な関係なり(笑)。
ショスタコーヴィチのこと、昭和30年代の映画のこと、広く芸術のこと、そしてまたプライベートのこと、腹を割った話は時空を超える。とにかくあっという間の楽しいひと時。遠方からの遠征、本当にありがとうございます。

さて、今夜は少し違った視点で音楽を聴こう。
ショスタコーヴィチは自身の作品を初演前にピアノで近くの友人たちに聴かせることを習慣にしていた。気軽にいつどこでも音楽を聴くことができない不便な時代ということもあろうが、作曲者が自らピアノ用にアレンジしてシンフォニーを直接演奏してくれるのだから、こんな贅沢はない。どうやらショスタコ・アレンジによる管弦楽曲は多数あるようだから現時点で音盤になっていないものも含めもっといろいろと聴いてみたいものだ。

僕は昔から管弦楽曲のピアノ版が殊の外好き(作曲者自身のアレンジだろうと他人の編曲だろうと)。これまでも随分と楽しませていただいているが、昨年、ベートーヴェンの歌劇「フィデリオ」をツェムリンスキーがピアノ連弾用に編曲したセットをタワーレコードで発見し、それが廉価で販売されていたものだから思わず購入したのだが、聴いてみて思わずのけ反るほど感動したことを思い出し、久しぶりに取り出し真正面から聴いてみた。ベートーヴェンもおそらく自ら自分の作品をピアノ・アレンジしただろうが、いかんせん形に残っていない。それを補うかのように後年リストや他の大作曲家が編曲を試みているが、中でもこの「フィデリオ」は驚天動地の出来。うつらうつら聴いていると、ある瞬間何の曲だったかわからなくなってしまうほど「フィデリオ」が「フィデリオ」らしくなくなっている点が見事としか言いようがない(どこからどう聴いても「フィデリオ」なのだけれど)。

ルール・ピアノ・フェスティバル・エディション
ベートーヴェン:歌劇「フィデリオ」作品72
(アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー編曲による4手ピアノ版)
第12番メロドラマ:ワルトラウト・マイヤー(レオノーレ)、クルト・モル(ロッコ)
滑川真希、デニス・ラッセル・デイヴィス(ピアノ)

ここでのツェムリンスキーはまったくの正統派。
一切の虚飾を排し、とにかく自然体のベートーヴェンを心掛ける。それに素直に応える2人のピアニスト。
ベートーヴェンの音楽の骨格がそれだけ不動だということだろう。誰がどんな風にアレンジしても最終的に聴衆に届く音は何か超越したものがあるということ。
ひとこと、かっこいい。

本日は、かの東京大空襲から67年目のその日。
そして、明日は東日本大震災からまる1年。
黙祷・・・。

3 COMMENTS

雅之

おはようございます。

昨日は遅くまでありがとうございました。

非常に有意義で楽しい時間を持て、とても嬉しかったです。

本日はいよいよオーケストラ・ダスビダーニャですね!!

引き続きよろしくお願いします。

返信する
岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
こちらこそありがとうございました。
あっという間でしたね。楽しかったです。

さてさて、まもなくですね。
よろしくお願いします。

返信する

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む