シルヴァン・カンブルラン指揮 第13回音楽大学フェスティバル・オーケストラ

1912年は釈迦の時代から弥勒の時代(それは風の時代でもある)へと転じた年だと言われる。奇しくもそれは大正元年。
夜明け前、釈迦の時代の最後の足搔きとでもいうのか、マーラーの悲痛な心の叫びを聴く。
それは、妻アルマへの不信なのか、嫉妬なのか、あるいは現世への途方もない不安なのか。
後半、オーケストラのトゥッティの中、風の時代の象徴たるミュート付トランペットのA音が残り、甲高く唸る様子に僕は身震いした。おそらくマーラーは無意識だったのか。あえてこの楽章のみが演奏可能な状態で残された意味は、本人の意志とは別に天の采配があったのかどうなのか。

マーラーは、この《第10交響曲》のスケッチを5つの楽章のものにする計画だった。そして、楽章の順序は最終的には決定していなかったものの、第1楽章はアダージョ(それにアレグロがつづく予定だったらしい)、第2楽章はスケルツォ、第3楽章はプルガトリオ(浄罪界の意味)で、アレグレット・モデラート、第4楽章はスケルツォでアレグロ・ペザンテ、第5楽章は終楽章とされていた。マーラーは、第4楽章のスケルツォには、「悪魔が私とともに踊る」と記した。しかも、こうした5つの楽章を全部完成したのではなくて、一応補筆すれば演奏できるような形になっていたのは、第1楽章と第2楽章と第3楽章だけだった。ただし、第2楽章と第3楽章のほうは、いわば骨組みだけのような形になっている。
「作曲家別名曲解説ライブラリー1 マーラー」(音楽之友社)P102

1910年に作曲が始められた交響曲第10番は、作曲家の急逝により未完に終わった。しかし、第1楽章のみはほぼ完成形として残されており、最晩年の悲痛な心境を伝えるという意味で、交響曲第9番のかの終楽章アダージョの死に絶えるようなあの浄化の様を一層深化させた傑作に仕上がっている。

音楽大学フェスティバル・オーケストラの演奏は、アマチュアならではの熱量に覆われており、独奏箇所などいくつもの難所がそれぞれのパートの渾身の力で、しかも誠心誠意の心でもって描かれていた(素敵だ!)。アマチュアとは思えない、否、アマチュアならではの強い意志と繊細なる静けさの対比に感動した。そして、久しぶりに聴いたカンブルランの強い意志が音楽に乗ってクレッシェンドする様子に僕は思わずのけ反った。

休憩をはさんで後半のラヴェルは、色彩豊かなオーケストレーションを無心に、多大な集中力で乗り切ったオーケストラのメンバーに賛辞を贈りたい。ラヴェルのエキゾチックさ、そこから西洋と東洋が出会う瞬間の美しさを僕は思った。

マーラーと同じく夜明け前、セルゲイ・ディアギレフの委嘱によりラヴェルはこのバレエ音楽を作曲した。いずれ近い将来、陰陽二気の世界を一に統べる時代が到来せんと(それぞ万法帰一!)、やはり天の意思が動いたのかどうなのか、ゲイであった(それは二気を開くのか?!、逆に閉じるのか?!)ディアギレフの依頼である点が絶妙な按配だ(ただし、ディアギレフは同時に初演された「牧神」にかかりっきりで「ダフニスとクロエ」についてはほったらかしだったらしい)。そんな中、ラヴェルはまるで東西の音楽を一つに統合しようとしたかのように、オリエンタルな(つまりそれは原点回帰でもある)音調を醸す音楽を創造した。

ちなみに、バレエ「ダフニスとクロエ」の初演は1912年6月8日にピエール・モントゥーの指揮によって行われた。会場はシャトレ座。振付はミハイル・フォーキン、主演はタマラ・カルサーヴィナ(クロエ)、そしてヴァスラフ・ニジンスキー(ダフニス)。

ここでの音楽大学フェスティバル・オーケストラの演奏は、後半になるにつれ熱を帯び、ラストは盛大な盛り上がりで素晴らしかったのだが、正直1時間近くにわたる音楽に、僕は途中集中力を欠いてしまった。音楽が一体どこに向かって進んでいるのか見失ってしまうほどの平坦さといえば聞こえは悪いが、途中僕の脳みそは真っ白(朦朧)になってしまった(ごめん)。
しかし、さすがに第3部フルート独奏によるパンの神の吹く葦笛の精妙な、温かい歌に僕の脳みそが動き出した。ニンフの祭壇の前でダフニスが誓い、テンポが速まり、熱狂を迎える最後の大乱舞に快哉を叫んだ。総じてレヴェルの高い演奏に、上野学園大学+国立音楽大学+昭和音楽大学+洗足学園音楽大学+東京音楽大学+東京藝術大学+東邦音楽大学+桐朋学園大学+武蔵野音楽大学各大学選抜メンバーの技量の高さを思った(すべては熱狂の渦の中にある)。


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