1988年5月13日、アムステルダムにて、チェットがホテルの窓から自殺とも思える転落死を遂げたニュースは単に世間を驚かしただけではなく、スキャンダル報道の側面もあった。現場検証の記録で“年齢約30歳の男”とされた男が58歳のチェット・ベイカーと確認されるまで約12時間を要し、このあと無数の記事がチェットと麻薬のことを報じた。まるでチェットの知名度は麻薬常習のみによるかのようであった。
その前日、12日木曜日の午後、チェットは汽車にてロッテルダムからアムステルダムへ向かった。火曜の夜から水曜と、麻薬を打つことが出来なかったため、彼の気分は決してよくなかった。ロッテルダムでは友人のロバート・ファンデルフェイストの家に一泊した。ちなみに、同じ家にはトランペッターのウッディ・ショウもいたのである。ファンデルフェイストはなんとかチェットのために麻薬を手に入れようと試みたがうまくいかなかった。チェットはアムステルダムの中央駅に着くと、ゼーデイク地区に直行した。そこでは、必ずなんらかの麻薬が手に入ることになっていた。彼はヘロインとともにコカインも買った。長い間我慢した御褒美に少し別のものも買ってみたのである。
~ユールン・ドフォルク著/城田修訳「改訂版 チェット・ベイカー その生涯と音楽」(現代図書)P2
チェット・ベイカーの死の真相はわからない。
捜査官の談では、麻薬中毒による妄想から飛び降りたのだろうという推測だが、本当のところはどうだったのか。自殺か他殺か、それは闇の中だ。
チェットの歌声はアンニュイだ。
彼の奏するトランペットもどこか人間離れした、どこか別の星からの音楽のような、不思議な様相をいつも示す。出来不出来が多かったことも、もちろん彼の麻薬による体調不良等原因として考えられるが、「チェットは別の惑星から来て、別の惑星に戻って行った」と言われるように、地球の人ではなかった(?)からだ。チェットの音楽は時に妙に明るい。
・Chet Baker sings and plays with Bud Shank, Russ Freeman and Strings (1955)
Personnel
Chet Baker (trumpet, vocals)
Bud Shank (flute)
Russ Freeman (piano)
Red Mitchell, Carson Smith (bass)
Bob Neel (drums)
Frank Campo, Johnny Mandel, Marty Paich (arrangers)
Ray Kramer, Ed Lustgarten, Kurt Reher, Eleanor Slatkin (cello)
Corky Hale (harp)
チェットの声は古びない(永遠だ)。
70年の時を超え、彼の歌も演奏も、聴く者の魂を癒す。
彼が麻薬依存症であったとしても、そんなことは彼の音楽には無関係だ。ある意味命を懸けて音楽に奉仕し続けたという意味で、チェットの魂は永遠だ。生々死々を繰り返し、輪廻の環から抜けられない苦悩よりも、その苦難さえ楽しまんとする天才の現実逃避の術だったのだろうと思う。
自殺にせよ他殺にせよあの時点で死を迎えたことに本人は本望だったかもしれない。
彼の音楽を愛していた聴衆も、あそこで途切れたことが良かったのだろうと思う。
残された、中でも正規に録音された音盤、特に1950年代のものはやっぱり奇蹟的な美しさを示す。