
旋律をあみ出し、旋律のなかに人間の意欲と感覚のこのうえなく深い秘密をあらわにするのは天才の業である。天才の働きがどんな反省からも、どんな意識的なもくろみからもかけ離れているさまは、ほかのどこよりもこの旋律をあみ出す業において歴然ときわ立っていて、なにかインスピレーションとよばれるようなものが天才の働きであろう。いずれの芸術においてもそうだが、ここでもやはり概念は不毛なのだ。作曲家は自分の理性では解しようのない言葉で世界の内奥の本質をあらわに示し、このうえなく深遠な叡智を語り出す。それはあたかも、催眠術にかかった夢遊病者が、術にかかっていない覚醒時にはまるで解っていなかったことがらを、術にかかるとにわかに明快に説明し出すというのにも似通っているのである。
~ショーペンハウアー著/西尾幹二訳「意志と表象としての世界Ⅱ」(中公クラシックス)P214-215
意識を超えたところに真の芸術があるということだろう。
天才というのは天上の声を聴き取ることができたから「天才」だった。
バッハは「私以上に勤勉に努力したものはいない」と自負したが、努力はともかく彼には生まれ持ったセンスは間違いなくあった。
コンパクトディスク黎明期、いまだバッハの真髄をつかめていなかった時期に購入し、愛聴した音盤(輸入盤はMade in West Germany)。僕はこの音盤によっていわゆるピリオド楽器の演奏にいよいよ開眼させられた。「目覚めるとはこういうことだったのか!?」と当時目から鱗が落ちる思いだったことを思い出す。
BWV1052はミュンヘンはヘルクレスザールでの、他の2曲はロンドンはヘンリーウッドホールでの録音。当時、実に鮮烈な印象をもたらしたバッハは40余年を経ても新鮮そのもの。
バッハの峻厳さと、一方でバッハの慈悲とを見事に表出する演奏は、(繰り返すが)これをもって僕をバッハの宇宙に真に誘ってくれたのである。
BWV1054など、それまでさんざん原曲のヴァイオリン版で耳にしていたものが、ピリオド楽器の伴奏によるチェンバロ版にて一層僕を虜にした。
そのときの、恋心にも似たときめきを今もはっきり思い出す。