永遠に古びない音楽、アルバム。
しかし、70年代から80年代初頭にかけての、特にプログレッシヴ・ロックの方法に見るような、どこか似たようなプロデュースのあり方は、今となってはほんの少しにせよ違和感はある。
しかし、40年前の僕は、とにかくそういう音源を漁っては、繰り返しのめり込んで聴いていた。1枚のアルバムを聴き込むことに執念を燃やしていたといっても言い過ぎではない。
一時期心底はまっていたイエスやキング・クリムゾンの流れから、メンバーのソロ・アルバムやそこから派生してメンバーが少しでも携わっているプログレ系のアルバムは徹底的に聴いた。
懐かしい思い出だ。
・Bruford:Feels Good To Me (1978)
Personnel
Bill Bruford (drums, percussion, vocals)
Allan Holdsworth (electric guitar)
Dave Stewart (keyboards)
Jeff Berlin (bass)
with
Kenny Wheeler (flugelhorn)
Annette Peacock (lead vocals)
John Goodsall (rhythm guitar)
今は本当に便利な時代。Youtubeで大抵の音源は聴けるのだから。
ディシプリン・クリムゾン前夜のビル・ブルーフォードは実に軽快だ。それに、ロバート・フリップとともに80年代クリムゾンの要を担ったのはブルーフォードだったことがあらためて実感できる上出来のアルバム。
当時は、クリムゾンやイエスなどの大物プログレ・バンドの周辺ではメンバーが境界を越えてソロ名義のアルバムを数多出していたけれど、なるほどそれは、ドストエフスキーの如く互いにポリフォニックにマクロ・コスモスをを形成するミクロ・コスモスだったのである。
ドストエフスキーならば何よりもまず、この作品(トルストイの短編「3つの死」)の3つのレベルがすべて互いを反映し合うように仕組み、それらを対話的関係で結びつけたことだろう。つまり御者や木の生と死を地主貴族夫人の視野と意識の中に導入し、一方地主貴族夫人の生を御者の視野と意識に導入したことだろう。また作者である彼が見て知っている重要な事柄を全部、主人公たちに見させ、認識させたであろう。そして自分のためには(求められている真実にとって)本質的な意味での作者用の余剰をまったく残さなかったであろう。地主貴族夫人の真実と御者の真実は突き合わされ、対話的接触を強いられたであろう(もちろん必ずしも直接のまとまった対話の形を取るとは限らないが)。そして自分も両者に対して対等な対話者としての立場をとることであろう。作品全体は大きな対話として構成され、作者はその対話の組織者兼参加者として振舞い、自分に最後の言葉を留保することはしないであろう。つまり彼は作品の中で人間の生と人間の思考につきものの対話的本性を反映しようとしたであろう。したがって小説の言葉の中には純粋な作者のイントネーションだけではなく、地主貴族夫人や御者のイントネーションも響くことになろう。つまり言葉は複声的になり、一つ一つの言葉の中に議論(ミクロの対話)の声が響き、そこの大きな対話の反響が聞こえることであろう。
~ミハイル・バフチン/望月哲男・鈴木淳一訳「ドストエフスキーの詩学」(ちくま学芸文庫)P148
録音から半世紀近くを経て、あらためてビル・ブルーフォードの才能の凄さを思う。