追悼クルト・ザンデルリンク

僕の人生はいつも遠回り。なぜかついつい道草を食い、おおよそ人の2倍の時間を要してようやく辿り着く。単に要領が悪いだけなのだろうが、どれだけ深いカルマを背負っているのか・・・(笑)。昔から自分の時間スピードは他の人の半分くらいだと冗談半分でよく言っていた。つまり、20歳の頃は10歳の精神年齢で、40歳の時にようやく成人したようなものだと。それは言い過ぎかもしれないが、いわゆる童顔(?)のせいか若い頃からいつも何歳かは必ず若く見られていたというのは確か。半世紀近くを生きてきたが、今でも自分は心身の状態からせいぜい30歳くらいだと信じている。

ところで、昨日クルト・ザンデルリンク氏が亡くなったよう。齢98。大往生である。大指揮者というのは長生きの人が実に多い。自分が演奏するわけじゃないというのもあろうが、体力の限界まで現役を続けられるということもあろうし、何より日々頭を使って音楽の研究をし、オーケストラの団員と喧々諤々やり合ったり、あるいは飲みニケーションを謳歌したり、音楽家の中でも特に人との交流こそが第一の仕事であることがその理由なのだろうとあらためて思う。
僕は残念ながらザンデルリンク氏の実演には触れ得なかった。チャンスを何度も逃した。後悔先に立たず。

ちなみに、ザンデルリンクといい、ギュンター・ヴァントといい、老境に至ってからようやく注目され、神のように崇められるようになる音楽家というのは多い。それはひょっとして日本に限っての現象なのかもしれないけれど。それこそ愚直に自分の感性で自らの信じる道をとことん歩み続けた結果が聴衆やオーケストラ団員からの尊敬につながるというところが素晴らしい。大器晩成というが、人生に早い遅いというのはないんだと思う。たとえ遠回りをしようとも自らを信じ、やり続けることが重要なんだと大指揮者たちの生きざまをみて再確認した次第。

さて、追悼の意を込めて、クルト・ザンデルリンクの最後の演奏会の録音を。

・ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲作品56a
・モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番ハ短調K.491
・シューマン:交響曲第4番ニ短調作品120
内田光子(ピアノ)
クルト・ザンデルリンク指揮ベルリン交響楽団(2002.5.19Live)

録音のせいなのか、それとも当日の演奏がそうだったのか、あまりにも血の通った有機的な音楽が鳴り響くのに驚く。整理整頓され、どちらかというと音をがなり立てることなく聴衆に音楽そのものを訴えかける様が見事。例えば、内田をソロに据えたモーツァルトのK.491。この暗い音楽を僕はそれまであまり好きになれなかった。しかし、この音盤を聴くにつけモーツァルトの巨大な精神性が手に取るようにわかり、後のベートーヴェンを軽く超えてしまうような畏れ多さすら感じた。内田光子の技術もさることながら、やはりここはザンデルリンクの手腕の為すところだろう。そして、驚くべきはシューマン!!こんなにも柔和でありながら内燃するエネルギーを放出する演奏は珍しいかも。本当に最後の演奏だと指揮者もわかっていたから成し遂げられたのだろう孤高のシューマン。


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