カプソン アンゲリッシュ フォーレ ヴァイオリン・ソナタ第2番ホ短調作品108ほか(2010.7録音)

ガブリエル・フォーレの音楽は実に情熱的だ。
音調はどちらかというと地味な(?)印象だが、ひとたびその魅力に憑りつかれると一生涯の宝となる。受け手の器の問題が大きく左右し、地味な印象が、ある日ある時、滋味溢れるものに変化するのである。だからこそ、彼は本物だ。

フォレの音楽が嫌いな人がいるだろうか?
こう、正面きってきかれれば、誰も嫌いだとはいいにくいのではあるまいか。しかし、それが彼の場合、微妙に働くのであって、誰も嫌いではないが、しかし、では情熱的に愛するのか? あるいは非常に高く評価するのか、と重ねてきかれると、躊躇してしまうというところがありはしまいか? 誰も彼を嫌う人はいない。さればといって、本気で打ちこんで愛しているのかと問いつめられると、また、即座にウイと答えられる人はごく少なく、むしろほかの音楽家たちのあとまわしにされてしまうのではないか。それだけに、少数の熱愛者の熱は、ますます高くなるというのも事実だが。
私はまちがっているかもしれないが、そうでないとすれば、私にはなぜフォレがこんなにたまにしか演奏会でとりあげられないか、よくわからないのである。
というのも、私の考えでは、フォレの音楽は—その全部ではないとしても、そのなかのあるものは—近代ヨーロッパ音楽の最良のものに属するからである。

「吉田秀和全集11」(白水社)P221

吉田さんの印象、認めた言葉は正しい。
それこそ先入観なのだろうと思う。彼の音楽はその魅力が腑に落ちるのにおそらく時間がかかる。繰り返し幾度も耳にし、虚心に味わってこそ、突然「わかる」のである(アントン・ブルックナーの音楽同様に)。
中でも彼の書いた室内楽作品は地味だ。しかし、その中にどれほどの「美」が存在するか。晩年聴力を失った後の作品も、青年期の果敢な挑戦たる作品も、ほとんど差異なく僕たちの心をとらえる。

フォーレ:
・ヴァイオリン・ソナタ第1番イ長調作品13(1875-76)
・子守歌ニ長調作品16(1880)
・ロマンス変ロ長調作品28(1882)
・アンダンテ変ロ長調作品75(1897)
・初見視奏曲イ長調(1903)
ルノー・カプソン(ヴァイオリン)
ミシェル・ダルベルト(ピアノ)(2010.7.4-12録音)
・ヴァイオリン・ソナタ第2番ホ短調作品108(1916-17)
ルノー・カプソン(ヴァイオリン)
ニコラ・アンゲリッシュ(ピアノ)(2010.7.4-12録音)

正統な、中庸な、衒いのない、フォーレの美を堪能できる「室内楽全集」からの1枚。
吉田さんの愛するフォーレは、いまやあの頃と比較して随分演奏会のプログラムに載るようになったのではなかろうか。
カプソンとダルベルトによるソナタ第1番は青年期の明朗さの中にある逸品。
しかし、それ以上に素晴らしいのが晩年に書き上げられた、カプソンとアンゲリッシュによる天国的な、抜けた印象のソナタ第2番ホ短調。聴覚を失いつつあったフォーレが辿り着いた漆黒の世界が、ルノー・カプソンの瞑想的なヴァイオリンによって荘厳に歌われる。

フォレの晩年の音楽が、はじめ私に灰色の老人の芸術にみえた、もう一つの原因は、一つの楽章のなかのいくつかの重要な楽想たちが、ベートーヴェンのように対照を主眼とせず、ごく微妙な点でちがっているが、大きくみると、むしろ共通性があり、一つのものから発生した兄弟のようにみえる事実にもあったのだろう。しかし、私には、そのうち、この共通性があればこそ、彼は、楽式の構想において、あそこまで前進でき、しかも音楽のまとまり、純一性において、欠陥のない作曲をするのに成功したのだということが、わかってきたのだった。
~同上書P241

吉田さんの心眼はさすがに的を射ていると思う。
ベートーヴェンとフォーレは(ある意味)双生児だと言っても良いくらいだが、私見では、ベートーヴェンの音楽が形而上に沈潜していくのに対し、フォーレのそれはあくまで形而下への解放だ。理をとらえたベートーヴェンに対して、あくまで気の世界の奔流を謳歌するフォーレ。何と意味深い。


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