ところで、以上を整理すると、『第一交響曲』の成立については、つぎのような年代記が想定できる。最初にフィナーレがあった。しかし、これはまだ一つの交響曲のそれになるかどうかははっきりしない。ただ、それは《勝利のフィナーレ》つまり、暗い戦いののちの明るい前進を意味しえた。ついで、第1楽章が構想された。その時、この第1楽章は悲劇的な、苦悶と苦悶をくぐりぬける性格であることから、かつての『2台のピアノのソナタ』のフィナーレとの結びつきが考えられた。ハ短調の第1楽章が書かれた(それがこの時点で完成されていたと考える必要はない)。しばらくして、フィナーレを母胎にして、第2、第3楽章がかかれた。その時までに、第1楽章は導入部をもち、それによって、残りの楽章との結びつきはより顕在化してきた。最後に、フィナーレのための導入部がかかれ、ついに、曲の精神的中核であったクララへの遠い山からの愛の呼びかけが形となって現われた。
私はこう推測する。
~「吉田秀和全集2」(白水社)P232
1974年の「ステレオ芸術」に掲載された小論からの一部だが、半世紀を経てその筆致はやっぱり瑞々しい。推論の正否は横に置くが、僕が吉田さんのこの評論に出会ったのはかれこれ40年近く前だったと思う。久しぶりに読んで、当時の記憶が蘇ってきた。
四条烏丸の十字屋で見かけたジャケットと、店内でかかっていた音楽はブラームスの交響曲第1番だった。おそらく季節は今頃、当時僕は堀川丸太町の駿台予備学校京都校に通っていた。西洋クラシック音楽の入口にようやく立った僕にとってその音楽は実に衝撃だった(未だにその光景を忘れないのだからかなりのインパクトだったのだろうと思う)。
音楽の造形がどうだとか、テンポが何だとか、そんな蘊蓄はこの際どうでも良い。
記憶の片隅に残る重厚な音楽に久しぶりに耳を傾けて、40余年前の蒸し暑いあの日のことが突然蘇ってきた。音楽とは不思議なものだ。
・ブラームス:交響曲第1番ハ短調作品68
カルロ・マリア・ジュリーニ指揮ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団(1981.11録音)
ティンパニの猛烈な、しかし意味ある打ちこみの素晴らしさ。
終始音楽に重心と軸をもたらす中心の楽器たるティンパニの存在意義をこれほどまでに如実に感じさせる演奏があったかどうか。そして、吉田さんが指摘する(比較的テンポの遅い)終楽章の、「クララへの遠い山からの愛の呼びかけ」が顔を出す瞬間の憧れ。
この頃のジュリーニは頂点にあったのだろうと想像する。
しかし、それ以上に素晴らしいのが(個人的には)第2楽章アンダンテ・ソステヌート。粘るように祈る冒頭から哀感に溢れ、旋律の美しさが際立つ。とてもアメリカのオーケストラとは思えぬ繊細さ。(この音の中にずっと浸っていたい)