父アナトールとはまた違った意味での哲学的思念の塊。
ひとつひとつの音がとても大切に奏でられ、音楽はただただゆったりと進む。とにかく高音がきれいだ。
何が異なるのか?
おそらくそれは女性的な、女性性が前面に醸し出される点だと思う。
第1楽章モデラート・カンタービレ,モルト・エスプレッシーヴォ冒頭の絶妙な「ため」「節まわし」からため息が出るほど。
大袈裟だけれど、奇蹟のベートーヴェン。(あくまで個人的な思い入れの反映もあると思うが)
・ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第31番変イ長調作品110
ディーナ・ウゴルスカヤ(ピアノ)(2013.4&5録音)
一転して性急な、動的で短い第2楽章アレグロ・モルトと、そこから神秘感漂う第3楽章アダージョ・マ・ノン・トロッポ、アリオーソ・ドレントへの見事な変転に胸がすく。
何と静謐で美しい音楽をベートーヴェンは書いたのだろう。そして、ディーナは何と祈りに溢れるピアノを弾くのだろう。(天使が奏でるようだ)最高なるはフーガ!!
「小景異情その四」
わが霊のなかより
緑もえいで
なにごとしなけれど
懺悔の涙せきあぐる
しづかに土を掘りいでて
ざんげの涙せきあぐる
~福永武彦編「室生犀星詩集」(新潮社)P18
犀星の詩はどんなときもあまりに美しい。
そこには歓喜があり、また慟哭がある。(ベートーヴェンの音楽と同じ)
福永武彦は説く。
犀星詩の分りにくさ、美しさは、彼の持って生れた土着的なものとも深い関係がある。彼の故郷である金沢の風土は、彼の詩の中に常に顔を出しているし、田舎者の頑固さは、晩年に至るまでこの人を都会人たらしめなかった。20歳の抒情をかたくなに守り通した。と同時に、彼の人道主義、魂からの迸る出る愛を、終世持ち続けた。この愛は貧しい虐げられた人たちに向けられ、女人に向けられ、妻や子に向けられ、友人たちに向けられ、遂には「どんな細微な生きもの」に対しても向けられた。それも上品な愛とは限らない。もっとなまぐさい性質のものである。そしてこの愛が、やがて日本人的な感覚と結びついた時に、彼は草花を愛し、虫や鳥を愛し、骨董を愛した。
~同上書P256
「遁走曲」と名づけらるるフーガは、追っても追っても追いつかない事象の音化。そして、それは本来輪廻のごとく本来終わることがないものだ。
人生とは懺悔そのものだ。
ベートーヴェンも犀星もいつもその中にあった。
それゆえに彼らの生み出すものは常に美しい。