自分のやりたいことがよくわからないという学生がいる。社会人になってもひょっとすると80%のサラリーマンは同じようなのかもしれない。明確に人生のビジョンを持ち、具体的に行動する人間は成功するといわれている。確かに「思考」は「波動」だから「欲望」は現実化していくのだろうし、ビジネスや大きく「人生」という観点から考えたらそれは真実だと思う。

でも、逆の方向から見てみたらどうなのだろうか?3次元的な思考をすると、どうしても「お金」や「名誉」、「地位」という条件、問題が重要な要素になる。「あなたは欲がないね」とよく言われる。とはいえ、やっぱり現実的に生活をしていくとなると最低限のお金は必要だ。だから全くの「無欲」ということはありえない。生活をしていくことと自らの「生きる目的」を全うすることとの間にはとても大きな「乖離」がありそうだ(生活の術と人生の目的が完全に一致できている人は羨ましい)。

そんなことを考えながら一日過ごしていると、「愛」を説くにも3次元的な最低限のモノを獲得する手段が不可欠だということをあらためて感じてしまう。

神の子モーツァルトも生活のために傑作を多数残した。絶頂期の頃は自作の演奏会を年に何十回も開催し、今のお金に換算して何千万円という利益を獲得した。そういうアマデウスも晩年にはあまりに作品が純化し過ぎ、一般大衆に理解されない境地に達したため作品が売れなくなり、生活に窮した。やはり芸術と生活は相容れないという証なのか。

バッハやヴィヴァルディなど何千という作品を残した17世紀から18世紀の作曲家たちはいずれも多作だ。当時の音楽はあくまで貴族のもの。彼らに認められた音楽家は生活には困らなかったわけだ。しかし一方、常に作品を創作することを要求され、同じような曲想の楽曲を手を変え品を変え生み出し、楽器を変更しつつ編曲バージョンなども多く創ったという。

ヴィヴァルディ:フルート・ソナタ集作品13「忠実なる羊飼い」
ジャン=ピエール・ランパル(フルート)
ロベール・ヴェイロン=ラクロワ(チェンバロ)

芸術家は「愛」につながるパイプであると僕は考える。「愛」はひょっとすると「生活」の中からは生まれ得ないのかもしれない。パトロンに庇護された下でのみ悠々と生まれうる「特殊産物」なのだ。
20世紀に「愛」に溢れたクラシック音楽が少なくなったと感じるのは、民主化という中で状況が一変し、純粋に「音楽」に没頭できる作曲家が少なくなったからではないだろうか。

生涯に何千という相似形の楽曲を残したヴィヴァルディを聴いていると何だかとても落ち着く。どの曲も純粋に「愛」を感じるから。

やりたいことはわからなくてもいいのかもしれない。できることがわかっていれば。

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