カルロス・クライバーの「魔弾の射手」を聴いて思ふ

ヨーロッパの音楽の伝統。どこの国においてもオペラが中心で、作曲家はオペラを書くことを重責とした。そして、指揮者も基本は地方のオペラハウスの音楽監督からそのキャリアをスタートする。コンクールで入賞し、いきなり表舞台に三段跳びで出世コースを歩むこともあろうが、古の巨匠指揮者を思うに、やっぱりきちんと下積みを経て一歩ずつ階段を上がってゆく方が「長持ちするのではないか」と。
カルロス・クライバーという指揮者はひょっとすると父親エーリッヒの七光りを得ている可能性も何パーセントかはあろうが、そういう点を差し引いたとしても類稀な才能を持った天才であったように、「ばらの騎士」を聴いて再確信する。

オペラは音楽芸術の最高峰である(と僕は思う)。何より文学や音楽、あるいは舞台美術や演劇や、あらゆる芸術的要素がそこに集約されるのだから聴衆側も相当の力量を要求されるが、それを生み出す創造者の力たるや凡人の想像を絶する。
ここのところ僕が着眼するのは「全体観」。そのことは以前も書いたが、中でもオペラこそその真髄が享受できる芸術はないのでは?ワーグナーをして舞台総合芸術を完成せしめたこの分野の作品こそ現代の僕たちに必要な能力を開発する大いなる術にもなり得るのだ。

例えば、カルロス指揮するウェーバーの「魔弾の射手」。この鮮烈なるデビュー盤をあらためて聴いて、ドイツ・オペラの真の意味での奔りと言えるこの作品が非常によくできた代物だと思い知った。何より、序曲を聴くだけで劇の内容が俯瞰できること。そして、各々の旋律、フレーズが聴く者にもたらす官能(この言葉が正しいかどうかは別にして)。これこそがベルリオーズやリスト、そしてワーグナーに(さらにリヒャルト・シュトラウスに)引き継がれる浪漫的妖艶な響きの根源的総合。

ウェーバー:歌劇「魔弾の射手」
ベルンド・ヴァイクル(オットカール侯爵、バリトン)
ジークフリート・フォーゲル(クーノー、バス)
グンドゥラ・ヤノヴィッツ(アガーテ、ソプラノ)
エディット・マティス(エンヒェン、ソプラノ)
テオ・アダム(カスパール、バス)
ペーター・シュライアー(マックス、テノール)
フランツ・クラス(隠者、バス)ほか
ライプツィヒ放送合唱団
カルロス・クライバー指揮ドレスデン国立管弦楽団(1973録音)

この推進力と若々しさは誰にも真似はできまい。しかも、決して呼吸は浅くならず、極めて重厚な音楽を響かせるのだからカルロス・クライバーの芸術はすでにこの時点で完成していたということ。
今日のところは集中して第2幕を聴いた。この幕こそ鍵。音楽が次第に深層に迫りくる様にウェーバーの天才、そしてそれを見事に再現するカルロスの天才を見る。有名な第4場「狼谷の場」の音楽はまるで何もないかの如く颯爽と過ぎ去ってゆくが、内燃するパッションの深さは並大抵でない。続く精霊たちの合唱は白眉。何とおどろおどろしい・・・(ホルン重奏による雄叫びも半端でない)。

オペラの全曲をなぞった後、あらためて序曲を聴いてみる。やはりこの音楽の内にすべてが語られていること、そのことが奇跡的。


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