
自身のオペラ歌手としての限界を察したマリア・カラスの最後のオペラ・セッション録音。
何という壮絶な「トスカ」!!
『トスカ』の旧盤—ディ・ステーファノ、ゴッビとの共演、ヴィクトル・デ・サバータの指揮で1953年に録音された—は誰もが認める名盤だったが、新盤(カルロ・ベルゴンツィ、ゴッビとの共演、プレートルの指揮による)は一つの事件だった。声量が落ちたにもかかわらず、カラスは比類のない深みを持つ芸術性によって、最高のトスカ役としての力量以上のものを発揮したのである。
レコーディングに成功したことで、彼女はますます、いまの自分にとっては『トスカ』が最も危険の少ない演目であると確信した。そして、1965年2月にパリ・オペラ座でトスカを歌うことと、5月にふたたび『ノルマ』に出演することを承諾した。
~ステリオス・ガラトプーロス著/高橋早苗訳「マリア・カラス―聖なる怪物」(白水社)P424-425

長らく旧盤の虜になっていて、新しい方の録音をなおざりにしていたが、繰返し幾度も聴くにつけ、当時のマリア・カラスの覚悟の心境が感じ取れるほど真に迫っており、ジョルジュ・プレートルの指揮と併せ、実に素晴らしいセッション録音になっていると僕は思う。
何より歌劇「トスカ」の、情感豊かで詩的な「歌」、あらゆる人間感情とドラマの奔流に思わず音楽に集中し、時間を忘れてしまうほどなのだから素敵だ。
時は1800年6月14日。
第1幕冒頭からプッチーニの激しくも美しい音楽が炸裂する。
個人的には第2幕がやはり胆。トスカとスカルピアの駆け引きのシーンが圧巻だ。
身代金は「いくら」なのかと聞くトスカ(カラス)に対して、スカルピア(ゴッビ)はサディスティックに「お金ではなく、貴女の肉体が欲しいのだ」と迫る。続くトスカのアリア「歌に生き、恋に生き」は、全曲中最大の聴かせどころ。歌に恋に生きてきたが、他人にはけっして悪いことはせず、恵まれない人々を内緒で助け、祭壇には祈りと花を捧げてきたのに、なぜ神様はこのような酷い仕打ちをするのですか、と嘆くトスカ。
~スタンダード・オペラ鑑賞ブック(1)「イタリア・オペラ(上)」(音楽之友社)P188
残念ながら誰しも因果の法則という宇宙の真理からは逃れられないのである。
今生でどれほど善行を積んだとしても過去世の因縁がある以上トスカにも非があると言わざるを得ない。
しかし、ここでのカラスの絶唱(歌に生き、恋に生き)は、旧盤とはまた違って、カラスの進化(というより深化)が見られ、興味深い。
さらに、トスカのスカルピア殺害のシーンの凄惨さ!
「これが、トスカの接吻よ!」
何と鬼気迫る場面であり、音楽であることか!
そういえば、かつて六本木WAVEには、シネ・ヴィヴァンがあった(今は六本木ヒルズに変わっている)。そこではマイナーだけれど、素晴らしい映画が上映されていて、20代の僕は幾度も通った。しかし、当時の僕のセンスでは大抵の作品がよくわからなかった。
その最たるものがダニエル・シュミット監督によるドキュメンタリー映画「トスカの接吻」。
ほとんどの時間、僕は寝ていたと記憶する。
(今ならはっきりその素晴らしさが体感できるはずだ)
そして、第3幕冒頭、愛の二重唱の旋律がこの上なく清く、美しく奏でられた後、処刑を前にしたカヴァラドッシが、トスカとの愛の日々を懐かしむアリア「星は光りぬ」でのベルゴンツィの歌唱に大感激。
私はまず、内なる自我の全き力をつかむ。そうすると、何か価値あるものを生み出したいという、燃えるような欲求と強い決意を感じる。この欲求、この願望を抱くこと自体、自分が目標に到達できるのを知っていることなのだ。次に私は、私を創造して下さった力に激しく請い求め、応えを要求する。この求め、というより祈りと、こうした高次の支えが授けられるという全面的な期待とは、一体になっていなければならない。こうして完全に信じ切ると、魂の中心である発電器から私の意識に向けて震えが伝わる道が開かれ、その後で霊感に満ちた着想が生まれる。
(ジャコモ・プッチーニ)
~アーサー・M・エーブル著/吉田幸弘訳「大作曲家が語る音楽の創造と霊感」(出版館ブック・クラブ)P174-175
作曲活動にまつわる、インスピレーションが訪れる瞬間を作曲家はそう語る。
プッチーニの天才!!!

