ルドルフ・ゼルキン ブルーノ・ワルター指揮ニューヨーク・フィル ベートーヴェン 第5番「皇帝」(1941.12.22録音)ほか

青年時代、ひとりのファンとしてブルーノ・ワルターと手紙のやり取りをしたほどの宇野功芳さんをしても、ワルターが渡米後まもなくニューヨーク・フィルと録音したレコードに関しては、「冴えない悪演で、決して聴きたくないレコードだ」と言い切らせるほどで、ことごとく厳しいものだ。

生前の宇野さんは次のように語っている。

平凡であるということは、あってもなくてもいいということ。でも、芸術というものは「あってもなくてもいい」ではだめなんです。何か存在価値がないと、それは芸術ではない。欠点だらけでも、一か所凄いところがあれば、それは存在価値があるわけです。今はそういう個性的な演奏は少なくなっていますが。
宇野功芳/山之内正共著「『音楽』と『音』の匠が語る 目指せ!耳の達人」(音楽之友社)P22

冴えない悪演とまでいうのなら、それは決して平凡なものではなく、個性の一つであるのにと僕は思う。

1940年代初頭のブルーノ・ワルターの録音は、いずれもが力の漲る、時に力の入り過ぎた堂々たる刺激的な演奏だ。宇野さんは「威力的なオーケストラを柔らかく鳴らそうとして、結局は中途半端に終わってしまった」と批評するが、確かに、慣れない手つきでオーケストラを自在にとはいかず、悪戦苦闘するワルターの姿が想像できる演奏ではある。しかし、それは決して空回りではない。むしろ、そこにはブルーノ・ワルターの強力な意志が通うのだ。

アメリカにおけるヨーロッパ人の主要課題であるとともに、経済的にも個人的にも快適な境遇を得るための前提条件になるのは、アメリカの環境に対する精神的順応であると私には思われる。しかし、善意と《しなやかな》性質をもった移住者にとって、それが困難になることはほとんどありえなかった。本来私の友人や知人は、すべてここに根づくことに成功したのであって、ただ、精神的に頑固な人とか、この朗読家のように、慣れた事柄に捕われたままの素朴な人の場合にだけ、しばしば絶望的な状態が生じたのである。
内垣啓一・渡辺健訳「主題と変奏—ブルーノ・ワルター回想録」(白水社)P453

いつの時代も必要なものは柔軟性であるが、この報告からしてみても、ワルターには人一倍のフレキシビリティはあったと見える。彼の生み出す剛柔合わせ持つ音楽の原点がここにある。

・ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番変ホ長調作品73「皇帝」(1941.12.22録音)
ルドルフ・ゼルキン(ピアノ)
ブルーノ・ワルター指揮ニューヨーク・フィルハーモニック

若きルドルフ・ゼルキンの直情的なピアノを、ワルター指揮ニューヨーク・フィルが大らかに包み込む。第1楽章アレグロから速めのテンポでワルターが煽り、興奮を喚起する。一方、第2楽章アダージョ・ウン・ポコ・モッソはワルターの「柔」の側面が強調された「歌」溢れる名演奏。そして、終楽章ロンド・アレグロの豪快な鳴りっぷりに心が躍る。

ベートーヴェン:
・交響曲第5番ハ短調作品67
・交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」
ブルーノ・ワルター指揮ニューヨーク・フィルハーモニック(1941.12.15録音)

宇野さんが「悪演」とレッテルを張った第5番は、1941年とは思えぬ鮮明な音と共に、当時のワルターの気概溢れる強固な意志を持った演奏だ。少なくとも僕の耳には、生き生きとした、未来への希望に満ちるベートーヴェンであり、「エロイカ」とともにウィーン時代の典雅さを封印した(反戦を謳う)怒れる獅子の如くの(後世に残しておきたい) 良演である。

しかし私の境遇がもっとはるかに不利だったとしても、すべての新しいものに生涯魅力を覚えた私にあっては、その魅力が新しいものの異質性にうちかっていたことであろう。それというのも私は楽天的に生まれついているのでった、苦しみに溢れた体験や世界の事件に対する戦慄にもかかわらず、落ち着いた瞬間にはいつも調和の感情を意識していたのである。この心的状態が、ショーペンハウァーがあれほどに激昂して指摘した《のろうべき楽天主義》となんの関係もないことはたしかであって、おそらくはこの世の苦しみを完全に受けいれようとする態度に一致するものなのではないかと思われる。
~同上書P454

悟りの境地に至ったワルターの言葉は素敵だ。
そして、葛藤を含んだ心の襞までもが刻印されるワルターの録音はいずれもが貴重だ。

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