

メンデルスゾーンのピアノ協奏曲の話題からの流れでショパンの協奏曲を聴いた。
今やほとんど聴かなくなったこの作品の真価を知らしめられたのは、かれこれ四半世紀前にリリースされたクリスティアン・ツィマーマンとポーランド祝祭管弦楽団による、濃密な浪漫薫る演奏だった。
他の演奏にない、独特のアーティキュレーションで、ショパンの稚拙といわれるオーケストレーションを見事に補った表現に、当時僕は快哉を叫んだ。時に粘るピアノ独奏は、恋焦がれるショパンの心象を見事にとらえたもので、ショパンの協奏曲はこれ以外にないと思ったほどだった(来日公演を待ちに待ったが、結局実現ならなかった)。
メンデルスゾーンの作品との優劣はこの際横に置いて、先入観を捨て、虚心に耳を傾ける。
何と高尚かつ美しい音楽であることか!
熱狂、優雅、才気、熱火、高貴というようなものに話題が及んだ場合には、誰しも彼のことを考える。けれどもその反面、気まぐれ、病的な奇癖、憎悪、夜行などの話が出た時にも、彼の名は必ずひきあいにだされないということがない。
彼の以前の作品は、すべてこういった尖りきった国民性の刻印を帯びていた。
しかし芸術はこれだけでは満足しなかった。彼の生れ故郷に対する小さな関心は、世界市民的なものの犠牲にならなければならない。早くも彼の最近の作品には、あまりに特殊なダルマチア式面貌が消えてきている。いずれは、作品の表現も、昔からあの神々しいギリシア人たちがその形成者として考えられている、例の普遍的理想的なものに次第に近づいて来るだろう。そうなれば我々は、結局、別の道を通ってモーツァルトにおいてお互いに再会することになるのだ。
~シューマン著/吉田秀和訳「音楽と音楽家」(岩波文庫)P110
これをもってショパンはローカル作曲家から抜け出し、いよいよ孤高の存在になって行くだろうことをシューマンは予言したのである(ロベルト・シューマンの慧眼!)。
ショパン:
・ピアノ協奏曲第1番ホ短調作品11
・ピアノ協奏曲第2番ヘ短調作品21
クリスティアン・ツィマーマン(ピアノ&指揮)
ポーランド祝祭管弦楽団(1999.8録音)
シューマンの言う、ショパンのかつての二面性は、おそらく彼自身が本来持っている性質だったのだろう。長短両面が見事に昇華され、そして類稀なる音楽表現として成就したのがツィマーマンの弾き振りによるこの演奏だったのだと僕は思うのだ(そういう意味では表現方法はこれ以外にない)。
第1番ホ短調は、壮年期のツィマーマンの独壇場。
ショパン国際コンクール優勝後、彼は来日し、リサイタルやN響との協演を行っているが、その時の古い動画を発見した(おそらくVTRからのアップロードなので画質は悪い)。当時、僕はテレビで鑑賞していたが、何と指揮が朝比奈御大であったとはすっかり忘却の彼方だった。
ちなみに、朝比奈隆指揮NHK交響楽団との協演(1978.9.29Live)は、第1楽章管弦楽提示部に大幅なカットがある。
当時21歳のツィマーマンの演奏は、実に標準的なもので、ポーランド祝祭管との録音と比較すると(悪く言うと)何の面白みもないものだった(美しい演奏には違いないが)。
個人的には、最近はどちらかというと第2番ヘ短調の方を好む。
簡潔で、よりローカルな(?)音調と、ショパン自身の心境が見事に刻印されていて、いかにも人間的な音楽だからである。ましてツィマーマンのこの演奏は情緒に溢れ、当時のショパンの恋心を巧みに表現しており、あまりに素敵だ。
ここで芸術一般に対するショパンの意義というものの中で、彼が今までに獲得してしまったものをのべてみるとすれば、こんな風に言えよう。彼は、我々の芸術の進歩というものは、まず芸術家が精神的貴族主義に向かって進んでこそ初めて行われるのである、という認識を植える上に大いに貢献している。—この認識は現在ますますその必要が痛感されているのである。
~同上書P111
これだけ情感を込めても精神的貴族性を失わないのがツィマーマンだ。
