
サンフランシスコ響時代のモントゥーの演奏はいずれも凄演だ。
情念の坩堝と化すというと大げさかもしれないが、指揮者の没入感と、それに対するオーケストラの感応が半端でなく、実に刺激的。1回限りの実演を聴くような感覚で傾聴すると間違いなく感動するだろう。






一週間まえ、ビュローは危うく息を引き取るところだったのだ。ぼくがその総譜のうちの一部を演奏して聞かせてあげていたときだったよ。
きみは、こんなことを体験した覚えはないだろうし、ぼくの作品が信頼されなくなり始めているなんて、理解できないだろうね。
なんとも、まあ、ぼくの作品なんかなくたって、世界の歴史は、どんどん前進していくのさ!
(1891年10月、マーラーからシュトラウスへ)
~ヘルタ・ブラウコップ編著/塚越敏訳「マーラーとシュトラウスある世紀末の対話―往復書簡集1888-1911」(音楽之友社)P12
この書簡の中で、マーラーは次のように付記している。
きみの『ドン・ファン』と『死と変容』とを見せてもらえないだろうかね?
おそらく前年、そしてその前年の初演の評判を聞いての依頼だろうと思うが、数年後の書簡で、マーラーはまた次のように書くのだ。
けれど、いずれにせよ、きみには、1897年からのベルリンが確保されているのだ。というのも、ベルリンにはきみにとっての素晴らしい活動分野があるものと信じているからだ。
ぼくの契約は、いまから5年だ。『ドン・ファン』『死と変容』『マクベス』は、どこにいってしまったのかな?
どうか、これらの楽譜を、即刻送ってもらいたい。ぼくのシンフォニーは、すでにブロンザルトに送っておいた。そちらでは、ぼくのシンフォニーは、どんなだろうか。
(1894年2月6日付、マーラーからシュトラウスへ)
~同上書P31
シュトラウスの怠りなのか、単純に失念なのか、そのあたりの事情はわからないが、いずれにせよマーラーはシュトラウスの才能に惚れ、彼の交響詩を演奏したいと考えていたのであろう。
モントゥーの熱気は、マーラーの指揮するそれに近いのかもしれないと想像した。
・リヒャルト・シュトラウス:交響詩「死と変容」作品24
・ワーグナー:ジークフリート牧歌
ピエール・モントゥー指揮サンフランシスコ交響楽団(1960.1.23-24録音)
劇的なシュトラウスに対して、安寧と嵐のような激しさが同居するワーグナーという対比に、ピエール・モントゥーの真面目を思う。
余談。
ハンス・フォン・ビューローが死んだとき、ハンブルクでの追悼演奏会にマーラーが登場した(「エロイカ」を指揮)。この演奏会はもともと、1894年2月26日、シュトラウスが指揮することになっていたようだ。
シュトラウスがビュローの訃報を受けたとき、シュトラウスは決めておいた自分の演奏プログラムを変更して、ビュローの作曲『ニルヴァーナ』に並べて、ヴァーグナーとリストの作品演奏を提案した。この提案は拒否されたが、それは、ヨハネス・ブラームスを贔屓しており、そのうえ、リストの娘コージマが夫のビュローを捨ててリヒャルト・ヴァーグナーと結婚したことを許せないとしたハンブルクのビュロー集団への配慮からであった。シュトラウスは、ブラームスの作品の指揮をふたたび拒否した。この演奏会は、マーラーとユーリウス・シュペンゲルの指揮のもとで行われた。
~同上書P36
音楽の良し悪しとは別のところで是非が起こることの悲しさ。
人間の性とはというものだ。