モントゥー&パリ音楽院管のストラヴィンスキー「ペトルーシュカ」を聴いて思ふ

stravinsky_rite_of_spring_petruhka_monteux0481911年のディアギレフ。鋼鉄の意志を持った稀代のプロデューサーの類稀な力量と運の良さを垣間見る。すべてがまるで予定されていたかの如く、パズルのピースが見事にぴったりとはまりバレエ・リュスの誕生につながっていったという奇蹟。意志の勝利である。

セルゲイ・グリゴリエフによる「ディアギレフ・バレエ年代記1909-1929」が面白い。いわゆる研究本ではなく、ディアギレフとバレエ・リュスに直接関わった舞踊家、舞台監督による真の記録である点が大きい。

「諸君、私は恒久的なバレエ団をつくって、1年中公演することにしたよ」。こんなことを言い出すとは思ってもいなかったので、一同に衝撃が走った。かまわずディアギレフは続ける。「パリで2回公演したので、満足できるレパートリーができた。レパートリーはまだまだ増える。毎回新しいメンバーを集めて、パリ公演だけのために臨時の一座をつくるのは馬鹿げていないか。パリ公演が成功したので、ほかのところからも公演の依頼がある。これも成功は疑いない。結局のところ、私は初めての私設大バレエ団をつくることにした。
セルゲイ・グリゴリエフ著/薄井憲二監訳/森瑠依子ほか訳「ディアギレフ・バレエ年代記1909-1929」(平凡社)P48

意志を持ち、具体的に行動を起こす人間には運まで味方するようだ。ニジンスキー獲得に至るエピソードがすごい。

でもニジンスキーには問題があった。帝室バレエ学校で無料の教育を受けたので、卒業後5年間のお礼奉公の義務があった。まだこの期間はかなり残っている。しかし思いがけない事件が起こって、うまく立ち回った。・・・運悪く―運良く―その公演には皇帝一家が出席していて、ニジンスキーの姿に不快感を表明した。それは大スキャンダルとなり、ニジンスキーは不服従の罪で解雇となった。しかしそのために、ニジンスキーは好きなときにディアギレフ・バレエに出演できることになった。
~同上書P49-50

おそらくディアギレフには計算があったと見る。この人が未来を見通す力に長け、いかに全体観に優れた人であったかがこのあたりからもよくわかる。労せずニジンスキーを得たバレエ団はこの後一層の勢いで人気を博していくのである。同じ年、初演された「ペトルーシュカ」にまつわる話もまたディアギレフらしい豪放さに溢れるものだ。

ディアギレフはヴェネツィアからの帰国の途中、スイスにいるストラヴィンスキーを訪ねて、でき上がっているはずのバレエ曲を聴く予定だった。でもバレエ曲はできていなくて、ピアノ協奏曲を聴いた。ディアギレフはこの曲を気に入り、協奏曲ではなく管弦楽曲に直して、イギリスでいえばパンチとでもいえるペトルーシュカを主題にしたバレエ曲にしようということになった。「ペトルーシュカ」のアイディアはこうして生まれた。ストラヴィンスキーはディアギレフのアイディアに従って、面白い民族舞踊曲を交えたロシア・カーニヴァル(ロシア正教の四旬節の前のお祭り騒ぎ)の音楽で、でき上がっていた協奏曲をふくらました。
~同上書P51

なるほど、「ペトルーシュカ」の元はピアノ協奏曲だったとは!ディアギレフなくしてこの作品の存在はなかったということ。恐るべし。
同年6月13日の初演時のエピソードの顛末も、意図せず成功を呼び寄せたかのような奇蹟としか言いようがない。

指揮者、音楽監督には若手のピエール・モントゥーを依頼した。前年のガブリエル・ピエルネは「火の鳥」で手こずったが、モントゥーも難題を抱えた。・・・リハーサル・ピアノとオーケストラで聴くのとでは音がまるで違う。踊り手はまごつくばかりだ。舞台は出演者でいっぱいなのに、真っ暗闇の中で舞台転換をしなくてはならない。これをさらに面倒にするのが、ストラヴィンスキーの音楽。・・・だが、この混乱から奇跡のように秩序が生まれた。「ペトルーシュカ」は大成功を収め、ロシア・バレエの栄光に貢献した。そしてディアギレフ・バレエ団が終末を迎えるまで、そのレパートリーに残った。
~同上書P59-61

初演者モントゥーの1956年ステレオ録音盤。

ストラヴィンスキー:
・バレエ音楽「ペトルーシュカ」(1911年版)(1956.11.6, 7, 9&10録音)
・バレエ音楽「春の祭典」(1956.11.2, 5, 6&11録音)
ジュリアス・カッチェン(ピアノ)
ピエール・モントゥー指揮パリ音楽院管弦楽団

第1場「謝肉祭の日」から音楽の勢いが他を冠絶する。後半部の、「ロシアの踊り」(例の有名な旋律が出てくる箇所)の躍動感と音調の生々しさは初演者ならでは。第2場「ペトルーシュカの小屋」におけるカッチェンのピアノのジャジーな響きに酔いしれる。第3場「ムーア人の部屋」の、特に「ワルツ」のオーケストラの華麗で洒落た金管にひれ伏し、さらに第4場「謝肉祭の日(夕方)」では、冒頭のロシア民謡に基づく舞曲の愉悦に思わず身体が反応する。まさにモントゥー自家薬籠中の美技というところ。

 

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