
1917年のバレエ・リュス。
欧州は第1次世界大戦の最中であり、ロシアでは革命の狼煙が上がっていた。
それらは禍という大変化の中でこそ革新が生まれることの証左か。
そしてこの時期、ロシアの共産党クーデターのニュースが伝わり、彼は、すべての国の革命家たちを呪い始めた。ディアギレフは、十月革命によってひどく不安な気持ちにさせられ、ロシアにとってひどいことになると予測した。彼が政治一般にどんなに無関心でいても、自国に影響することは、ひどくこたえるものだったからだ。
~セルゲイ・グリゴリエフ著/薄井憲二監訳/森瑠依子ほか訳「ディアギレフ・バレエ年代記1909-1929」(平凡社)P149
人の心とはそういうものだ。祖国というものへの愁いこそ精神に悪いものはない。
何より安心を得ようと誰しも努力をするが、真の心の安寧を得るには「道」を得るしかない。
一方マシーンは、芸術におけるモダンなものすべての、まさに化身となり、ディアギレフ自身のアイディアを実行に移すことができると考えられていた。そして、われわれがローマにいる間、ディアギレフはあらゆる機会を捉えては、それらを徐々にマシーンに注ぎ込んでいった。
(中略)
マシーンのローマでの3作目は、「パラード」だった。これはモダンアートの卓越した例だ。台本はコクトー、舞台装置はピカソ、そして音楽はサティが担当した。3人は全員、極めて”前衛的“だった。翌春、パリで「パラード」が上演された際は”センセーション“を巻き起こした。
~同上書P131-132
挙がった名前を見るだけで(今となっては)感激で卒倒しそうなステージになることが見える。
「パラード」は5月18日に初演された。
「パラード」はサーカスを主題としており、サーカスに出てくるいろいろな演し物を振付で取り上げていた。すなわち、一組の曲芸師、中国の手品師、アメリカ人の子役少女、芸をする馬などである。馬を演じたのは二人の男性で、極めて複雑なステップでリズムを刻み、それが音楽のかわりとなった—これには観客も喜んで、たいそう面白がった。厚紙でできた、キュビズム風建築のような衣裳を着た二人のサーカス興行師もいた。彼らは、人間の体に合わせた階段とバルコニー付きの摩天楼を表していた。ダンサーたちは、これらの衣装を嫌がった。これを着て動くのは、苦しくてたいへんだからだ。そして、サーカスの演し物がかわるたびに、この役のダンサーたちも、足をたくさん踏み鳴らさなくてはならなかった。それが二人の興行師の会話を意味していた。これは音楽から決別した“純粋なリズム”という概念で、ディアギレフを支配した熱狂の名残だった。「パラード」の出演者は皆、さまざまな演し物の役柄において見事だった。アメリカ人の少女を踊ったのはマリア・シャベルスカヤで、男性曲芸師はズヴェーレフ、そして中国の手品師はマシーン自身が踊った。結局、「パラード」は機知に富み、面白く、観客を大いに楽しませた。同時に、観客はこの作品を真剣に芸術品と見なし、この作品独自の様式の中に、現代の美学的原理が表れていると感じたのだった。
~同上書P136
指揮はエルネスト・アンセルメだったが、観客が「一級の芸術品」と即座にとらえたことが、当時の欧州の、特にパリの公衆の、芸術的知見の高さをうかがわせる。同年の3本の新作バレエのうち、最も前衛的な作品が最も好意的に受け入れられたのである。
エリック・サティは1866年5月17日の午前9時にセーヌ河口の町オンフルールに生を享けた。13歳のとき、父の意志によってパリ音楽院に入学するも20歳のときに逃亡、兵役に就くも病気のため除隊、パリでモンマルトルのキャバレーで生計を立てた。
奇人変人エリック・サティの登場だ。
本当は舞台そのものに触れない限り、「パラード」のすごさは見えないだろうと思う。
サティの音楽は今となっては常識の範囲内だからだ。
(だからこそ逆にまた刺激的なのである)
(前衛は、どこかにとっつきやすさが見えるから末代にまで残るのだ)
ルイ・オーリアコンブの表現はエスプリに満ち、管弦楽的バランス良し、音楽的センス満点で、サティの大衆じみた音楽をより高貴なものに仕立てている。
