
先般出版されたトスカニーニの評伝が滅法面白い。上下巻1000ページに及ぶ大著は、トスカニーニの生涯が、そのときどきの出来事だけでなくトスカニーニの心情含めとてもリアルに描かれており、その天才ぶりにあらためて度肝を抜かれるほど(彼の生き様には相当な努力もあったが、やはり天性の先見性こそ巨匠の武器だったのだと痛感する。
1905年、ローマのトスカニーニ。
首都に於ける平穏な数週間に、トスカニーニは、将来の公演に向けて、大量の未知の楽譜をむさぼり読んだ。マーラーの新しく出版された交響曲第5番は、「個性」も「天才」も欠いていると、彼は思った。彼は、その作曲家の皮肉を把握せず、彼の作品をレオンカヴァッロやイタリアの二流オペレッタ作曲家の作品に劣ると見なした。その作品は彼に、革新的過ぎると思わせなかった。それどころか、陳腐に思われた。しかし、当時、マーラーやトスカニーニの世代(マーラーはトスカニーニより7歳だけ年長)のドイツ流派指揮者の大部分でさえ、マーラーの音楽に僅かな関心しか示さなかった。後に、マーラーの弟子でトスカニーニよりおよそ20歳若いオットー・クレンペラーも、交響曲第5番の大部分を嫌った。トスカニーニは、やはり1904年に出版されたリヒャルト・シュトラウスの《家庭交響曲》を、「華麗なきらめきを持った、技巧的見地からは並外れた作品だが、芸術的な道筋としては非常に議論の余地がある」と表現した。これは、今日の大部分の音楽家が賛成する見解である。
~ハーヴィー・サックス/神澤俊介訳「トスカニーニ 良心の音楽家(上)」(アルファベータブックス)P225-226


マーラーもシュトラウスも、トスカニーニには革新的と映らなかったことが不思議だ。
やはり彼は、イタリア的カンタービレ(歌)の人だったのだろうか(?)。その上で、伝記には次のように書かれている。
今日の音楽家はまた、「まさにその名前をほとんど知らなかった」が「私が全く共感している」作曲家についての彼の見方に賛成するだろう—クロード・ドビュッシー、42歳のフランス人で、東洋の影響、五音音階と全音音階、そして、正統的でない和声進行を使った、その革新的な音楽的美学は、ワーグナー後のドイツ前衛派の方向とは全く異なる方向に通じていた。トスカニーニは、3年前にパリで初演された《ペレアスとメリザンド》を研究していた。「彼の芸術は、今までやられたあらゆるものを崩壊させる」と、トスカニーニは言っている。「彼は、シュトラウスのような技巧は無いが、もっと鮮やかで、もっと優美で、そして疑いなくもっと大胆だ」。トスカニーニはまもなく、ドビュッシーの管弦楽曲を演目に入れ始めることになった。そして、彼は、「今日のすべての国の聴衆は、それを受け入れるというよりも、それを或る程度理解すべき時期にまだ来ていない!」と思っていたが、すでに《ペレアス》を指揮することを夢見ていた。トスカニーニはまた、その後まもなく指揮し始めたエドワード・エルガーの「エニグマ」変奏曲(1899年出版)、そして、彼のレパートリーに入らなかった、チャイコフスキーの交響曲第5番及び最近亡くなったドヴォルザークの(ニ長調)交響曲第6番にも目を通した。
~同上書P226



それにしてもドビュッシーに感化され、エルガーやドヴォルザークなど(当時の)現代の音楽にも関心を示し、研究をしていたという事実こそトスカニーニの生み出す力強い音楽の源泉であったのだろうと想像する。
(個人的にはトスカニーニの指揮した「ペレアスとメリザンド」を聴いてみたかった)
戦時中の、フィラデルフィア管弦楽団との傑出した一連の録音の中からドビュッシーとレスピーギ。
中でも、得意とする「ローマの祭り」は、日本軍の真珠和攻撃のちょうど3週間ほど前(それによってアメリカ軍がついに参戦することになった)のものだが、まるでそれを予想したかのような熱気と勢い、あるいは怒りが感じ取れる雄渾かつ重戦車の如くの演奏だ。
そして、さすがにドビュッシーの2曲は素晴らしい演奏。
戦後のNBC交響楽団とのものを凌駕する、音の絵巻たる変幻自在の「海」の壮絶さ、そして柔和さに僕は感動する。ここにあるのは偉大なる母の姿だ。

「海、遠い海よ!と私は紙にしたためる。——海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。」
~三好達治「郷愁」