
あらえびすを繙く。
「交響曲第6番ロ短調=悲愴(作品74)」はチャイコフスキー畢生の大傑作で、これが完成後間もなく死んだ為に、「死の予感」だとも言われて居る。非常に感傷的で、絶望的な悲哀感が全曲に漲る。コロムビアに入っているフルトヴェングラーがベルリン・フィルハーモニック管絃団を指揮したレコードが名盤で、慟哭的な悲愴美が、背に迫るものを感ずる。最近のではトスカニーニが指揮したのが録音され、これは情熱的な名演奏だ。この辺のレコードはいずれをいずれとも言い難いだろう。長時間にはカラヤンがウィーン・フィルハーモニーを指揮したのがコロムビアにあり、これも名演奏だと言える。同じく長時間でオルマンディのは最も新しく、録音がすぐれている。外国ではこのほかにミュンク、ロジンスキーなどが入れている。
~あらえびす「クラシック名盤楽聖物語」(河出書房新社)P244

何とメンゲルベルクの超絶名盤が2種とも言及されていないのが不思議でならない。


ヴィレム・メンゲルベルクの「悲愴」には37年録音のものと41年の録音のものがある。
一般的には旧い方が支持されているようだが、個人的には圧倒的に新しい方に分があると思っている(19世紀浪漫の顕現という意味では確かに37年盤かもしれないけれど)。
しかし、指揮者自身がこの短期間で録音し直そうとしたには相応の理由があると思うのだ。
音楽の切れ、というか、そもそもこの時期の技術の4年の差は非常に大きく、音の明晰さにおいて後者の方が当然優れており、より大人しくなった(?)解釈がむしろ指揮者の体臭をより軽減していて、音楽そのものを堪能できるのである。
もちろんテンポの恣意的な伸縮など独特のアゴーギクは健在で、これぞメンゲルベルクの真骨頂というもの。終楽章アダージョ・ラメントーソの慟哭!!
一方の、序曲「1812年」も(第二次世界大戦の最中にあって)、異様なテンションと、メンゲルベルク自身の内なる狂喜と悲鳴の両方が刻印されるような、(人口に膾炙したわかりやすいフレーズに中に)優雅さと雄渾さが入り混じる名演奏。
序曲「1812年(作品49)」は、ナポレオンのモスコー侵入を題材とし、初演の時太鼓の代りに大砲を撃ったという逸話と共に、通俗的には最もよく知られている曲だ。少しくアメリカの成金好みだが、「ラ・マルセイエーズ」と「神、爾の民を護れ」とフランス、ロシアの国家が絡み合うと言ったケレンが一般に受けるのであろう。ストコフスキーの指揮したビクター・レコードと合唱附のポリドール・レコードが良いだろう。後者はキッチン指揮、ベルリン・フィルハーモニック管絃団、ウラル・コサック合唱団の演奏だ。
~同上書P244-245
こちらにもメンゲルベルク盤の言及はない。
ひょっとするとこの書籍の初版が1941年刊行だからだろうか(再刊は1954年だから筆者の再検討はあるように思うのだが)。

ヴィレム・メンゲルベルクが指揮に使用したチャイコフスキーの交響曲第6番のフルスコアのコピーの最初のページには、彼自身のきれいな手書きの注目すべき書き込みがあります。
黒インクで書かれた書き込みには、「彼自身の版のスコアに加えられたすべての修正とその他の変更は作曲者のフルスコアからコピーされたものであり、したがってそれらはチャイコフスキーの意思を反映している」と書かれています。メンゲルベルクは、作曲家の弟モデストとモスクワで会ったとき、この変更に注意を向けました。メンゲルベルクは、チャイコフスキーが1893年10月28日に自ら指揮したこの交響曲の初演からわずか9日後に亡くなったため、これらの変更が重要であると考えました(当時すでに印刷されてしまっていたフルスコアの訂正はできなかったのです)。メンゲルベルクは1896年に出版されたスコアのコピーを購入し、1897/98シーズンにコンセルトヘボウ管弦楽団と共にこの交響曲を初演しました。
図は、交響曲の冒頭のファゴットのラインに2つの修正が加えられていることを示しています。1つ目は強弱に影響を与えるもので(ffとfffの記号が追加されています)、2つ目は6小節目のタイで結ばれた8分音符を2分音符に長くするものです。この変更は現在の録音では明確に聴き取ることができます。これらの変更はリズム、強弱、楽器編成の細部に影響を与えています。
しかし、全体的な音楽的印象という点では、これらの詳細な変更は、指揮者のスコアに対する基本的なアプローチに比較して重要ではありません。ベートーヴェン、リヒャルト・シュトラウス、マーラーの作品の解釈と同様に、メンゲルベルクは常に作曲家の本来の意図に可能な限り回帰しようと努めました。彼がチャイコフスキーの修正だと信じていたものを指揮者用スコアに書き記しただけでなく、フルスコアへの口頭での注釈によって作曲家の意向に繰り返し明確な注意を向けていたという事実は、彼が後世の人々にこれらの意図を知らせることに熱心であり、スコアの私的なコピーはそのための手段だったことを示唆しています。
最近の研究では、モデストによって伝えられた修正は、実際にはチャイコフスキーの最終的な考えを反映したものではなく、チャイコフスキーが後に改訂したものの初期の版を表していることが示されています。「悲愴」に関するチャイコフスキーの最終的な考えには、修正も含まれていますが、交響曲の初演に関連して彼が行った変更は、印刷版のスコアに取り入れられました。メンゲルベルクがこの版から逸脱したのは、意図的な気まぐれによるものではなく、単に「より本物である」という確信に基づいていました。
メンゲルベルクより遅いテンポが、チャイコフスキーの弟モデストによって伝えられた作曲家の意図をどの程度反映しているかはわかりません。テンポは、例えばリズムの細部よりも演奏者によって変更される頻度がはるかに高いからです。印刷されたページ上の実際の音符は、一般的にメトロノーム記号や強弱記号などの楽譜自体の外に表示される演奏指示よりも、より高い信憑性が認められています。
この文脈で、メンゲルベルクはスコアの表紙裏に「交響曲全体は速過ぎないように」という注釈を加えました。例えば、第1楽章の19小節目、緩やかな導入部に続くアレグロ・ノン・トロッポでは、印刷譜では4分音符=116のメトロノーム記号が示されていますが、メンゲルベルクはこれを4分音符=100-104に変更し、「悲しげに」という指示を加えました。この遅いテンポは、本録音で聴くことができます。
他の指揮者の録音と比較すると、メンゲルベルクは1941年4月22日に行なわれたこの歴史的な録音において、明らかに速いテンポを選択しています(1937年12月にテレフンケンで行われた以前の録音も現存していますが、彼は技術的な理由からそれに満足していなかったと考えられています)。確かに、彼の同時代人や後継者の大多数は、この作品をよりゆっくりと演奏してきました。例えば、レナード・バーンスタインは、1987年にニューヨーク・フィルハーモニックと行った録音で、第1楽章をメンゲルベルクよりも5分も長く演奏しています(22分34秒対16分57秒)。
指揮者の視点から見るとより遅いテンポの選択は、絶望した作曲家が自らの人生を振り返り、音楽的な別れを書き記すという、伝記的な背景に関係しているのかもしれません。チャイコフスキーの死は繰り返し自殺とされてきましたが、真実は依然として不明のままです。メンゲルベルクがスコアのコピーに書き加えた記述から、彼自身の「悲愴」の解釈が作曲家の私的な運命を反映していることは明らかです。例えば、冒頭楽章では、117小節に「絶望的に」、317小節に「苦痛、嘆き」、326小節に「甘い愛の思い出」という言葉が見られます。さらに頻繁に見られるのは「激しく」という言葉です。
(シュテファン・ハンハイデ)
~TELDEC 4509-93673-2ライナーノーツ
おお、今度はウィレム・メンゲルベルクですか!私も二十代の頃、U野K芳さんの扇情的な御文章に踊らされて、キング・レコードや日本フォノグラムのLPを、買わされたものですよ(笑)。
『あらえびす』こと野村長一さまの御著書は、中公文庫版の『名曲決定盤(上)(下)』のみ、手元にございます。ただ、この労作も、CDが巷に溢れて、廃盤CD・LPやSP盤でさえも、コレクター諸氏のお手により、YouTube上にアップロードされ、その気になれば容易に試聴可能な2020年代と成りましては、それほどの存在意義や価値は…と言う気も致します。自身の耳と感性で、どのような御印象と御感想を抱くか…が、肝要かと存じます。