クナッパーツブッシュ指揮バイロイト祝祭管のワーグナー「パルジファル」(1964Live)を聴いて思ふ

「コジマの日記」には、虚飾のない、ありのままのリヒャルト・ワーグナーが描かれており、興味が尽きない。例えば「パルジファル」は、極めて長期間の構想の下、生み出された(聖俗あわせ飲む)崇高な(そして、現実的な)傑作だということがあらためてわかる。
1872年6月7日金曜日の日記。

食事の前に彼の演奏で父の《キリスト》を聴く。これまで聴いたかぎりでは、この作品にはよい印象をいだけない。「坊主の繰り言を真似しようとして、音楽という偉大で崇高な芸術の歴史的蓄積を放擲してしまうのは精神の貧困化のしるしだ」とリヒャルト。わたしたちは父がこうなってしまったことをとても悲しく思う。その最大の責任は、明らかにヴィトゲンシュタイン侯爵夫人にある。
(1872年6月7日金曜日)
三光長治・池上純一・池上弘子訳「コジマの日記3」(東海大学出版会)P247

当時、リストの恋人だったカロリーネ(ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人)は、敬虔なカトリック信者で、リストの生活から創作にまで多大な影響を及ぼしたのだという。おそらく《キリスト》も極めて個人的な愛情に偏った(ワーグナー夫妻に言わせれば)愚作なのだろう。

翌日の日記。

また《キリスト》について語り合う。「死後の生への不安が、至福の天国といった類いのことを吹き込むのだ。そういう人間たちは、直観的であれ意識的であれ、時間と空間の観念性を一度として理解したことがない。それを理解していれば、真の永遠は不断に現前していることがわかるのだが」。
(1872年6月8日土曜日)
~同上書P250-251

果たして彼が仏教でいうところの六道輪廻について知っていたかどうかはわからない。諸悪の根源は、今や不安を煽ることだけに形骸化した宗教なのだと言いたいのか。

そして、同年6月20日木曜日の日記。

夜、リヒャルトは「なんとしても《パルツィヴァル》を作曲するつもりだ」と言う。「宗教は芸術によって永遠の存在となる。宗教が芸術を生み出すことができない場合、すなわち最高の教養人と一般庶民をともに満足させることができない場合、宗教は永遠の生命を失う(モハメッド教)。
(1872年6月20日木曜日)
~同上書P263

僕は、1990年に上野で観た、(畑中良輔さんをして「生きててよかった!」と言わしめた)モーリス・ベジャールの「指環」を思った。
「神々の黄昏」の、壮大な最後のシーンが終った後の「苦痛は私の目を開かせた。私は世界の終わりを見たのだ」というナレーションに続いて鳴り響く「パルジファル」前奏曲!!
宗教の終焉を直観したリヒャルトが、真の救済を「パルジファル」に委ねたことをベジャールは知っていたのだと思う。
以下、当時の朝日新聞夕刊に掲載されたベジャールへのインタビューから。

「指環」のテーマは何か。ベジャールは答える。
「第一は“掟と自由”。第二はある世界の終わりが、次の同じ世界の始まりだということ。過度の規律は何ものも生み出さないし、かといって自由の行き過ぎは崩壊にいたる。独裁は打ち破られねばならないが、無秩序もまた滅びへの道だ。その綱渡りの上に真のデモクラシーがあるのだろう。ボータンの槍はダンサーの練習のためのバーにもなる。ダンサーにとってバーは規律の象徴だが、本当に踊っている時は、バーのことなど忘れているものだ」
~朝日新聞夕刊(日付不明)

舞台神聖祭典劇という名の通り、宗教を超えた創造物。それゆえに言葉や台詞を超えて、音楽のみで感知せねばならない作品なのだと僕は思う。

ハンス・クナッパーツブッシュの、バイロイトでの最後の「パルジファル」。
この際、物語のことは忘れよう。透明な、敬虔な、静謐な「音楽」だけを聴き給え。

・ワーグナー:舞台神聖祭典劇「パルジファル」
トーマス・スチュワート(アムフォルタス、バリトン)
ハインツ・ハーゲナウ(ティトゥレル、バス)
ハンス・ホッター(グルネマンツ、バス)
ジョン・ヴィッカース(パルジファル、テノール)
グスタフ・ナイトリンガー(クリングゾル、バス)
バルブロ・エリクソン(クンドリー、ソプラノ)
ヘルマン・ヴィンクラー(第1の聖杯騎士、テノール)
ゲルト・ニーンシュテット(第2の聖杯騎士、バス)
ルート・ヘッセ(第1の小姓、アルト)
シルヴィア・リンデンストラント(第2の小姓、ソプラノ)
ディーター・スレンベック(第3の小姓、テノール)
エルヴィン・ヴォールファルト(第4の小姓、テノール)
アニア・シリア(花の乙女、ソプラノ)
リゼロッテ・レーブマン(花の乙女、ソプラノ)
エルゼ・マルグレーテ・ガルデッリ(花の乙女、ソプラノ)
ドロテア・ジーベルト(花の乙女、ソプラノ)
リタ・バルトス(花の乙女、ソプラノ)
シルヴィア・リンデンストラント(花の乙女、ソプラノ)
ルート・ヘッセ(アルト独唱)
バイロイト祝祭合唱団
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮バイロイト祝祭管弦楽団(1964.8.13Live)

第1幕前奏曲から異様な、というよりもはや人間技を超越したあまりに静かな音楽が奏でられる。これが最後だとはわかっていなかったはずだが、ほとんど悟ったかのようなクナッパーツブッシュの真価。第1幕場面転換の音楽の巨大さは相変わらずだが、いつにも増して脱力ながら漲るエネルギーに感無量。また、言葉にならない荘厳な第2幕。この年限りのバルブロ・エリクソンのクンドリーの、深い眠りからの目覚めを示す叫びの声の実存感!また、クナッパーツブッシュの生み出す音楽の、滔々と流れる大河の如くのこの上ない深み!
ここにあるのは、純粋な透明さを獲得した上での生命力。
やはりこの時点でクナッパーツブッシュはまだまだやる気だった。
ベジャールが言うように、「世界の終わりが、次の同じ世界の始まり」なのである。
まさに「永遠」が刻まれる。

 

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