小澤征爾指揮サイトウ・キネン・オーケストラ J.S.バッハ(斎藤秀雄編曲) シャコンヌ(2004Live)ほか

© Shintaro Shiratori

筑紫哲也さんが書いた「21世紀の家族—絆」というエッセーの冒頭は次の通り。

小澤征爾氏から五嶋龍君(五嶋みどりさんの弟)まで、クラシックの世界で活躍している国際的な日本人アーティストは数えきれないほどいる。本来は西洋の音楽なのに、東洋の日本人がそれを演奏することに最初は違和感や偏見もあったというが、今ではそれは昔の話である。普段は世界中に散在している演奏家たちが”里帰り“の形で結集するサイトウキネン・オーケストラは世界最高のオーケストラのひとつである(私は「ひとつ」ではなくずばり「最高」だと個人的には思っているが)。
筑紫哲也「21世紀の家族—絆」

サイトウキネン・オーケストラについては僕も同感だ。
筑紫さんは2008年11月に亡くなるが、その後のサイトウキネン・オーケストラの活躍は巷間知られているところであり、日本はもちろん世界的にも(日本の誇る)超一流のオーケストラとして認知されている。この論の中で、筑紫さんは実に興味深いことを書かれている。

日本がアジアのなかで突出して“先進国”(サミットの唯一のメンバー)になるとともに、アジアのなかで突出して家族の解体が進んだのは、互いに無関係ではない。戦後、私たちは経済と効率を重視する社会を作った。ずばり言えばモノとカネの世の中である。それは何ごとにも「対価」が求められる社会である。
冷戦を経て資本主義とそのリーダー、アメリカが“ひとり勝ち”し、その主導で進められている「世界化」(グロバーライゼーション)は、この流れをますます加速するだろう。逆に言えば、そういうなかで、ほとんど唯一、「対価」を求めない仕組みが「家族」だとも言うことができる。親が子を育てる時、子が親に尽くす時、その行為の軸になるのは無償の愛情であり、経済原則による等価交換がそこに働いているわけではない。
人類の歴史のなかでは、「家族」の他に、非経済原則で支えられた装置として宗教が大きな役割を果してきた。「きた」と過去形を使わざるをえないのは、20世紀がそれを”呪縛“と見なし、代りに人間の能力に無限の信頼を置いて、ほとんど自らを信仰の対象として進んできた世紀だからである。そういうなかで、私たちの社会でも宗教の相対的位置は低下し、しかもその営みに経済原則が深く浸透した。いわば宗教の商業化が進み、そこは多くの場合、「対価」が要る世界と化した。
もちろん、「家族」もこのような社会の変化のなかで浸食される。変容を遂げる。もはや崩壊している場合も少なくない。

僕が長らく感じていたことを筑紫さんは見事に書いてくださっている。20年以上前の論だが、世界の状況はさほど変わっていない。むしろ懸念がより加速され、道徳の薄い、まして信仰などほど遠い国に一層成り下がってしまっていることが残念だ。

ただし、この論での筑紫さんの結論はこうだ(何と明るい!)。

サイトウキネン・オーケストラが素晴らしいのは、お金のためにではなく、日本にクラシック演奏を根付かせた斎藤秀雄という人を慕い、記念して集まる、いわば音楽家族の演奏だからだろう。

今やこのオーケストラの団員には斎藤秀雄を師とするどころか、その人さえ知らない若い世代も増えているようだが、彼らは斎藤秀雄の精神を、同時にオザワ・スピリットを受け継ぎ、真の絆というものでつながった音楽を創造するオーケストラとして世界でも稀に見るオーケストラとして活躍している。

2004年、斎藤秀雄没後30年という記念年の松本での斎藤秀雄編曲による「シャコンヌ」を聴いた。

・ヨハン・セバスティアン・バッハ:シャコンヌ(斎藤秀雄編曲)
小澤征爾指揮サイトウ・キネン・オーケストラ(2004Live)

小澤が亡くなった後に聴くからかどうなのか、決して抹香臭くない音楽であり、演奏なのだが、何だか本人が自身を追悼しているかのような錯覚を覚えるほど敬虔でありながら生命力豊かな音楽(渾身の指揮も)に言葉がない。

もう一つ、こちらはいつの演奏なのか、世界的ソリストたちが顔を並べ、壮大な「シャコンヌ」を(抜粋だが)、小澤の「弾いているうちに我々のお祈りに入っているかもしれない」という言葉通り、奏者各々の真剣な眼差し、創出された音楽の峻厳さに、思わず襟を正してしまうほど。実演で聴きたかった。


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