ジャン・ユボーのフォーレ舟歌(全曲)を聴いて思ふ

faure_hubeau374水滴・・・、あるいは水飛沫・・・。
雨音・・・。かつてショパンの調べなどという歌があったが、今の僕の気分はショパンというよりガブリエル・フォーレ。
内省的だけれど、ブラームスのような鬱積は少ない。そして、何より瀟洒かつ高貴。いかにもフランス的退廃の美徳を思う。例えば、13曲の舟歌。初期のものから後期のものへの変遷を顧みると、音楽は一層透明感を増し、複雑なようだが簡潔な書法で、崇高な印象を与える。まさにベートーヴェンが辿った創作の変遷と同じ道。最後のハ長調作品116など、さながらベートーヴェンの作品111の世界に通ずる。

「レクイエム」作品48に関するフォーレ自身の次の言葉。

私には死はそのように感じられるのであり、それは苦しみというよりもむしろ永遠の至福と喜びに満ちた解放感にほかならない。
ジャン=ミシェル・ネクトゥー著/大谷千正編訳「ガブリエル・フォーレ」(新評論)P196

フォーレも生と死を一体のものだと認めているようだ。それはおそらくワーグナーの影響であろう。いや、ひょっとすると元々そういうイデオロギーの持ち主で、そこが彼のワーグナー崇拝につながったのかもしれないが。

ところで、「舟歌」においてフォーレが描こうとしたのは、ワーグナーが息絶えた地であるヴェネチアの、それも死を運ぶゴンドラの諸相であったのか。時に明るく朗らかであり。時に沈潜する静けさに満ちる。フォーレは何を夢見ていたのだろう・・・。

もう一度いかなる分析も不可能だといおう。ある種の音楽を説明するには言葉では不十分だからである。「パルジファル」を聴かなければならない。聴いて、見て、そして言葉に尽くせない感動のなすがままにならなければならない。
(1914年1月2日付フォーレによる「音楽評論」から抜粋)
日本フォーレ協会編「フォーレ頌―不滅の香り」(音楽之友社)P164

フォーレのピアノ曲にも同様の「言葉に尽くせない感動」がある。

フォーレ:舟歌
・第1番イ短調作品26
・第2番ト長調作品41
・第3番変ト長調作品42
・第4番変イ長調作品44
・第5番嬰へ短調作品66
・第6番変ホ長調作品70
・第7番ニ短調作品90
・第8番変ニ長調作品96
・第9番イ短調作品101
・第10番イ短調作品104-2
・第11番ト短調作品105
・第12番変ホ長調作品106
・第13番ハ長調作品116
ジャン・ユボー(ピアノ)(1988.10-1989.4録音)

ユボーはフォーレとひとつになり、その音楽を紡ぐ。
何という慈悲。そして、魂の自由な飛翔。
聴覚を失いつつある音楽家の精神は、時間と空間を一気に超え全宇宙を包み込むほどの器を有するものなのか。

なるほど、フォーレの音楽は極めて中性的だ。

私は自分の部屋へ戻った。しかし、そこにひとりでいたわけではない。だれかがしなやかにシューマンの曲を弾いているのが聞こえていたからだ。なるほど、私たちがどんなに愛している人たちでも、ときには私たちの発散する悲しみやいらだちにうんざりすることもあるだろう。ところが、どんな人間もとうてい及ばないような力で怒りをかきたてることのできるものもある。それは一台のピアノなのだ。
マルセル・プルースト作/鈴木道彦訳「失われた時を求めて7―第4篇ソドムとゴモラⅠ」(集英社文庫ヘリテージ)P407-408

プルーストが心酔したのは他でもないフォーレのピアノ作品だ。
真に美しい・・・。

 

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