
対話の大切さを思う。
1860年3月、たった一度のジョアキーノ・ロッシーニとリヒャルト・ワーグナーの邂逅。
その日から半世紀も経過した後の、おそらく辛うじての記憶の中から編み出されたものゆえ(翻訳者の言葉通り)信憑性は定かではないが、多少の脚色や記憶違いがあれど、こういう文献が世に残されたことの奇蹟に感謝したい(巨匠同士の対談は実に興味深いものだ)。
その後、両巨匠は再び会うことはなかった。
パリ・オペラ座で《タンホイザー》が不成功に終わった後、フランス各紙とドイツの新聞の一部が、ワーグナーを餌食にし、再びロッシーニ名が絡んだ逸話を新たにいくつも掲載した。それから、不用意な知人らが—どのような目的でなのか?—イタリアのマエストロの態度を不利な形でワーグナーに伝え、ロッシーニを全く不実な人間であると信じさせようとした。
~エドモン・ミショット/岸純信監訳「ワーグナーとロッシーニ巨星同士の談話録(1860年3月の会見)」(八千代出版)P70
いつの時代も誹謗中傷というのはある。賞讃と批判とは表裏一体なのだ。
そういう噂ゆえにロッシーニは何度も弁解の機会を作ろうとワーグナーの再訪を求めたが、ワーグナーはプライドゆえかそれを拒否したそうだ。巨匠の拒否の真の理由はわからないが、ミショットは次のように想像している。
ただ、ワーグナーが拒否する真の理由は、むしろ、イタリアのマエストロともう一度会ったところで、得るところが少ないと彼が確信していたためだと私は見ている。初回の会見を申し入れた時、念頭にあった目的は、先述した通り、完全に達成されていた。ワーグナーはそれ以上何も求めていなかった。
~同上書P72
ワーグナーは何に対しても目的を明確にしたい性質だったのだろう(それこそ竹を割ったような性格なのである)。そしておそらく(ロッシーニ共々)二人には各々、何もなかった。それが正しい見解だと思う。
ロッシーニの名を口にするたび、ワーグナーは、ロッシーニに対して感じた敬意や高い評価を決して変えなかった。そのことを私は証せる。ロッシーニも同様であり、以降、ワーグナーのオペラがドイツで得た成功について、しばしば私に様子を尋ねたし、幾度もそれぞれに対して、ワーグナーに祝福や挨拶を伝えるよう依頼してきた。
~同上書P73
ミショットの言を待つまでもない。
作風は異なり、それぞれがそれに対して音楽そのものがものを言うのだからと具体的な論を出さず、天才同士は静かにお互いに認め合っていた。それがすべてなのだ。
溌剌たる、推進力に溢れるロッシーニ。
アバドの録音としては1970年代のグラモフォン及びRCAのものに比較して少々鈍くなっている感(?個人的な印象)もあるにはあるが、この明朗快活さがロッシーニの音楽に箔を付けている。いわゆるロッシーニ・ルネッサンスを先導したクラウディオ・アバドの真贋を見る眼の正しさ。
有名な「セヴィリアの理髪師」序曲からしてロッシーニの天才を見事に音化する。
「どろぼうかささぎ」序曲の躍動感たるや。
あるいは、「ウィリアム・テル」序曲は歌に満ち、かのクレッシェンドでクライマックスに導かれる際の興奮、躍動に言葉を失う。


