フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルのベートーヴェン「フィデリオ」(1948.8.3Live)を聴いて思ふ

ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは、ロマン・ロランが「時代の苦悩の、抑圧された自由を求める魂の記念碑だ」と激賞した、かつての「レオノーレ」にあった崇高な精神を「フィデリオ」において見事に抉り出す。

息をもつかせぬ緊張と、精神の高揚を喚起するドラマの再生。
例えば、終曲前に奏される「レオノーレ序曲」第3番の、その日、ザルツブルクの祝祭小劇場に居合わせたすべての聴衆を金縛りに遭わせたであろう熱量。

我々は「フィデリオ」が今日に至るまで完全に誤った解釈で演じられてきたと認めねばならない。だが私のように運よく、ウィーンで行われたベートーヴェン生誕100年祭における上演を見ることができた人は、自らの過去における無理解をメア・クルパ(我罪)と言明し、ウィーンで自分の前に示された第2幕全体の啓示を他の人にも伝えたいという衝動に駆られるだろう。第2幕は比類ない傑作で、これほどの作品は歌劇史上これまでも存在しなかったし、これからも存在しないだろう。
(ロマン・ロラン「レオノーレ」)
名作オペラブックス3「フィデリオ」(音楽之友社)P275

ロランのこの手放しの賞賛は、音楽はもとより優れた台本、それも「レオノーレ」第1稿のそれに向かうのだが、少なくとも最終稿における第2幕の、フルトヴェングラーの実況録音による壮絶な演奏は、僕たちにロランが感じたのと同様の衝動を与えるものだ。

1948年8月3日火曜日のザルツブルク祝祭小劇場。
放送音源によるのだろう、冒頭にはアナウンスも収録されており、古い音質ながら、当日の舞台の熱気までもが刻印され、冒頭の拍手や終演後の喝采などからは、その前年にようやく復帰したフルトヴェングラーの音楽を心から待望していただろう聴衆の感動と満足が感じ取れる。

再びロランの言葉を引用する。

「レオノーレ」が与える最も強い印象は深淵への下降とそれに続く夜から明るい空への再上昇だ。とはいえ光のクレッシェンドとその悲劇的対立物は第1幕後半になってはじめて明確な形をとるようになる。ベートーヴェンはレオノーレの大アリアに至るまでは、まだ模索し、自問している。彼はまだ完全に自分の題材をみつけていないのだ。そしてその真の本質に気づくのだ。
~同上書P278

残念ながら、ロッコ、レオノーレ、マルツェリーネの三重唱「よろしい!かわいい息子よ」(第5番)からピツァロとロッコの二重唱「さあじいさん、急な話だが」(第8番)までの4曲が欠落しているが、重要なレオノーレのアリア「悪者よ、どこへ急ぐのか?」(第9番)は、エルナ・シュレッターの熱唱と管弦楽伴奏が聴く者に大いなる感銘を与えてくれる。

・ベートーヴェン:歌劇「フィデリオ」作品72
エルナ・シュレッター(レオノーレ、ソプラノ)
リーザ・デラ・カーザ(マルツェリーネ、ソプラノ)
ユリウス・パツァーク(フロレスタン、テノール)
ルドルフ・ショック(ヤキーノ、テノール)
フェルディナント・フランツ(ドン・ピツァロ、バリトン)
ヘルベルト・アルゼン(ロッコ、バス)
オットー・エーデルマン(ドン・フェルナンド、バリトン)
カール・デンヒ(第1の囚人、テノール)
ヘルマン・ガロス(第2の囚人、バス)
ウィーン国立歌劇場合唱団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1948.8.3Live)

第2幕冒頭はいかにもベートーヴェンらしい暗澹たる音楽だが、フルトヴェングラーの、ためを作った濃厚な表現が一層の翳を生み出し、ロランの言う「死と再生の神聖な密議」を見事に描写する。そして、パツァークの演ずるフロレスタンのアリア「神よ、ここは何という暗さなのだ!」(第11番)には、彼の、悲壮ながら決して捨てていない内なる希望を感じるのである。

私は神のみ心に不平はいいますまい、苦しみをはかる秤は神のみもとにあるのだから。
人の世の春の日に、幸福は私から逃げ去った。
真実を大胆にあえて言ったばっかりに報いはこの鎖です。
すべての苦しみに喜んで堪えています。
~同上書P95

意識せずとも彼は妻レオノーレとつながっているのだから。

「レオノーレ」第1稿の第3幕全体―つまり現在上演される「フィデリオ」では第2幕―は死と再生の神聖な密議だ。このような調べは「アルチェステ」以来、絶えて舞台で奏でられたことがなかった。偉大なグルックでさえ、それほど豊かな交響曲的表現法は駆使できなかった。列柱のように鳴り響く和音、反響する丸天井、プロメテウスのような低音の呻き、シンコペーション、血流のよどみ、突然並はずれて激しく高鳴り始める脈拍、そして途絶えることなく深みでどよめく満々たる流れ、進んで苦しみに耐える者の上に漂い神聖化の力を持った無限の善。今やベートーヴェンは自分の世界の中にいる。もはや劇場も聴衆も存在しない。
~同上書P282

ロランの紡ぎ出すすべての言葉は、まるでフルトヴェングラーの「フィデリオ」を言い表すよう。

そういえば20年前の今日、僕はザルツブルクのモーツァルテウムでハーゲン・クァルテットのベートーヴェンやシューベルトを聴いていたんだった。懐かしい。

 

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2 COMMENTS

雅之

よく言われることではありますが、ベートーヴェンはその音楽の偉大さとは裏腹に、根本的に「女」をまったく理解できていなかったんでしょうね。そこがまた、彼の魅力なんですが・・・。

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岡本 浩和

>雅之様

>ベートーヴェンはその音楽の偉大さとは裏腹に、根本的に「女」をまったく理解できていなかった

これはどうなんでしょうね?
恋愛を繰り返し失敗するうちに異性に対する心の扉を閉じてしまい理解しようとしなくなったのか、
逆に、理解しなかったから失敗を繰り返したのか、
直接会って聞いてみたかったです(言葉がわかればですが)。(笑)

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