
久しぶりにアンドレイ・タルコフスキーにまつわる書籍をとっかえひっかえ読んでいる。
(昨日は何年ぶりかで「サクリファイス」を観た)
巨匠が亡くなって40年近くが経過するが、ようやく彼の思考に世界が追いついてきたのではないかと思う反面、やはり彼の中で当時、まだまだ真理というものが消化し切れていなかったのではないかという思いも強くなっている。
タルコフスキーが亡くなったのはわずか54歳のことだったのだから。
芸術とはいったいなにか! 芸術は〈善〉か〈悪〉か? 芸術は〈神〉のものか〈悪魔〉のものか? 人間の力からくるものなのか弱さからくるものなのか? もしかしたら、これは共同生活の保障とか社会的調和のイメージなのか? そしてこのなかに芸術の役割があるのだろうか? 恋の告白のようなものか? 他人に依存していることを自覚するようなものか? 告白。無意識だが生活の真の意味を照らし出す行為—〈愛〉と〈犠牲〉。 なぜ、あとを振りかえるとき、われわれは人類の道程に、歴史の大変動、カタストロフィを目にするのか、崩壊した文明の痕跡を発見するのか? 実際、これらの文明になにが起こったのか? なぜこれらの文明に息吹が、生への意思が、精神的力が不足していたのだろうか? こうしたすべてが純粋に物質的な欠乏のために起こったと信じることが果してできるだろうか? 問題は物質的欠乏だけにあったという前提は突飛すぎないだろうか? 歴史過程の精神的側面をまったく考慮しなかったために、われわれはふたたび新しい文明の消滅の縁に立っている、と私は確信している。人類をとらえた多くの不幸の原因はわれわれが容赦しがたいぐらい、罪深いほどに、絶望的に物質的になったからなのだということをわれわれは認めようとしない。つまり、自分を学問の支持者と考え、いわゆるわれわれの学問的な目論見の、いわば駄目を押そうとして、われわれは、分かつことのできようはずのない人間の、唯一のプロセスを縦に分割し、その一方の、目に見えるばねを明らかにし、それをすべての事柄の唯一の原因とみなし、そのばねを過去の誤りを説明するために使うばかりでなく、われわれの未来の青写真をつくるためにも使っているのだ。
~アンドレイ・タルコフスキー著/鴻英良訳「映像のポエジア―刻印された時間」(キネマ旬報社)P355-356
タルコフスキーは懊悩する。
あまりにも物質性だけに拠り所を見出す人類に映画を通じて常々警告を出していた。
そして彼は、東洋世界のあり方に答を見出した。
たとえばヴェーダのような世界観を信じ、その世界観にみずからを委ねることで、安らいでみたくなることがある。東洋は西洋より真理に近いところにいた。だが、西洋が生にたいする物質的な要求によって東洋を食いつくしてしまった。
東洋音楽と西洋音楽を比較してみるがいい。西洋は叫ぶ、—これは私だ! 私を見よ! 私がどれほど苦しんでいるか、どれほど愛しているか聞いてほしい! 私はなんと不幸なのだろう、なんと幸福なのだろう! 私だ! 私のものだ! 私に! 私を! と。
東洋は自分自身について一言もいわない! 神のなかに、自然のなかに、時間のなかに完全に溶けこんでいる。みずからをすべてのなかに見出し、みずからのなかにすべてを見出している! タオの音楽。キリスト生誕より6百年前の中国。
しかし、なぜ偉大なる理念は勝利することなく、滅びたのか? この理念を基礎にして出来上がった文明は、なぜ歴史過程のひとつの完成形態としてわれわれの時代まで生きのびることがなかったのか? かれらはおそらく、かれらを取巻く物質的な世界と出会った。個人が社会と出会ったように、この文明は他者と出会った。物質的世界、〈進歩〉、テクノロジーとの戦いだけでなく、それらのものとの対比がかれらを破滅させたのだ。この文明は真の知識の最終到達点、地の塩の塩(エリート中のエリート)であった。東洋の論理からすれば、戦いはその本性上、罪深いものであったのだ。
~同上書P357
時を経て今思うのは、東洋は決して滅びていないということだ。
すべてはプロセスの中にあっただけで、西洋に駆逐されたように表面上見えただけで、ついにまた東洋の時代が来る、否、来たといえまいか。
まずは日本である。争いや諍いを回避しようとする、慈しみの本性を発揮すべし。
バッハの中に、僕は東洋の精神を見る。
あの数学的によくできた、調和の、中庸の顕現は、他の作曲家にはない、普遍的長所だ。
なるほどバッハの内には常に信仰があった(それは本人の意思とは別に宗教の枠を超えるものだったと僕は考える)。その点さえ見失わなければ、バッハの音楽の中に、真理を見出すことは可能だ。
ヴァルヒャの旧録音は素晴らしい出来だ。
そしてまた、新しい方の録音は、バッハへの一層の尊崇が刻印される。
人として年齢を重ね、経験を積むと同時に溢れる枯淡の境地。
我欲が抜け、純粋に信仰だけが残っていくという境地。
ヴァルヒャのJ.S.バッハ「オルゲル・ビュヒライン」(1950&52録音)を聴いて思ふ オルガン・コラールを理解するために歌詞をよく知らなければならないという専門家もあるが、標題を標題としてとらえるのでなく、ただただ世界共通言語としての純粋音楽として聴くことが今の僕は大切だと思う。
何にせよここには言葉を超えた、宗教を超えた信仰というものがある。
西洋的でもなく、まして東洋的でもない、ただただ大宇宙の根源への感謝があるのみだ。
アンドレイ・タルコフスキー監督「惑星ソラリス」 