
レオナルドによって創りだされたイメージは、いつもふたつの点でわれわれを感動させる。そのひとつは、対象を外部から、外側から、傍らから熟視するときの、芸術家の驚くべき能力である。これは例えばバッハやトルストイのような芸術家に固有な、世界を上から見るまなざしである。
そしてもうひとつは、イメージが同時に二重の相矛盾する意味で知覚されているということである。
・・・中略・・・
真の芸術的イメージは、それを見るものに、必ず、複雑で、矛盾した、そして時として相互に排除しあう感情を同時に体験させてくれるのである。—アンドレイ・タルコフスキー
オットー 「あれは何です?」
アレクサンデル 「どれだ?」
オットー 「壁の絵です。あれは何です? ガラスが反射してよく見えないんです」
アレクサンデル 「『東方の三賢人の礼拝』だ。レオナルドだ。もちろん複製だ」
オットー 「気味の悪い絵ですね。私はレオナルドの絵が恐ろしいんです」
~樋口泰人責任編集/鴻英良監修「タルコフスキーatワーク」(芳賀書店)P82
世界を上から見るのではなく、自己の客観視なのだと僕は思う。
さらには、陰陽の二点を超えて俯瞰できる第三の眼のようなものを持っているのだとも思う。
それにしても芸術とは負の美学の極致であったことがよくわかって面白い。
気がつけば十二支が一周。
癸巳年(内なる力と粘り強さで目標を達成し、新しい自分へと成長する)から乙巳年(脱皮して新しい自分に生まれ変わる「再生」や「幸運」を意味する)。
さらに来年は、丙午。新しい挑戦や努力が実を結びやすい、活動的な一年になるらしい。
鈴木雅明指揮BCJのクリスマス・オラトリオを聴いて思ふ 現代人は信仰を失っているといわれる。
しかし、個人的には、意外にそうでもないようにも見える。少なくとも僕の周囲においては。
タルコフスキーは語る。
私の映画は、現代の思索の孤独な現象を、あるいは彼らの生活のイメージを支持したり、投げ捨てたりすることを要求しない。私の基本的な願望は、われわれの存在の本質的な問題を呈示し明らかにすることであったし、埋められてしまい、涸渇させられたわれわれの存在の源泉に観客を呼び寄せることだった。映画や視覚的イメージは、ことばより以上にこのことをすることができる。言語があの神秘的で呪術的な意味を失い、ことばが空虚なおしゃべりに変わったいまは、とりわけそうである。ことばは、アレクサンデルの考えによれば、なにかを意味することをやめた。われわれは情報の過剰のなかで息が詰まりそうであり、同時に、われわれの生活を変えることができるきわめて重要なメッセージは、われわれの意識に届かない。
~アンドレイ・タルコフスキー著/鴻英良訳「映像のポエジア―刻印された時間」(キネマ旬報社)P338-339
言葉を超えなければ人類は益々疲弊するだろう。
言葉に意味などなかった。あったのは個々の主観だけだ。主観がなければ客観も存在しない。ならば、いかに本質を見抜く力を養えるかどうかだ。
『東方の三賢人の礼拝』は気味の悪い絵だ、というフレーズが何度か繰り返される。確かに賢人たちは恐怖を起こさせる。レオナルドの絵には、幼児の方へ曲がった手を伸ばす老人たち、恐ろしい闘いのパノラマ、馬の尻、そして宇宙の風全体にさらされた生命が描かれている。コンポジションの中央にあって、背中を曲げ、横たわっている人々の上方に聳える木は—本当にその樹冠を上空へと伸ばしているのではないのか?
理想への想い、天の熱烈な誘い、信仰と希望に満ちた祈り、神への道と接近—これこそがアンドレイ・タルコフスキーの刻印された時間である。
(ネーヤ・ゾールカヤ/扇千恵訳「終わり」)
~アネッタ・ミハイロヴナ・サンドレル編/沼野充義監修「タルコフスキーの世界」(キネマ旬報社)P247-248

信仰を失った現代人への警告、それこそがアンドレイ・タルコフスキーの使命だった。
(それにしても彼の死は早過ぎた)
絵の前景は、救世主の誕生をいち早く悟り、奇蹟を受け入れる人々を示し、後景は、啓示を知らず荒廃した世界を知らない人々、世界を示す。
(信仰の有無が見事に反映される)
何が気味悪いのかというと、玉石分班という受け入れがたい事実を受け入れねばならない事実を見事に描写したダ・ヴィンチの信仰そのものに対する怖れなのだろうと僕は想像する。(実際のところ、信仰のない人にはそもそも怖れの自覚すらないのだが)
バッハの宇宙に戻ろう。
1735年1月1日から1月6日にかけて初演された第4部イエスの御名の祝日「感動と賛美にひれ伏さん」、第5部新年第一日曜日「神にみ栄えあれ」、第6部顕現節「主よ、おごれる敵の迫り来る時」を聴いた。12年ぶりの鈴木雅明指揮BCJによるクリスマス・オラトリオBWV248。
御子は生まれて8日後に割礼を受け、イエスと名付けられたとされている(ルカ伝第2章21節)。それはちょうど1月1日にあたることになり、そこでこの日をイエスの御名の祝日として祝う。
~作曲家名曲解説ライブラリー12「J.S.バッハ」(音楽之友社)P380
まずは明朗快活な第4部「感動と賛美にひれ伏さん」の歓喜。
オラトリオの第5,6部は、救世主の誕生を知って東方から訪ねてきた博士たちの物語である。その物語の前半にあたる第5部は、博士たちがヘロデ王を訪ねて御子のありかを問う場面が語られる。
~同上書P381
そして、厳格な、峻厳なバッハの本領発揮を示す第5部の厳しい美しさ。
1月6日にあたる顕現節は、東方の博士たちがうまやに憩う御子を探しあて、その誕生を祝ったという出来事を記念する祝日である。
~同上書P383
さらには第6部の見えない大歓喜。それこそ言葉では表現し難い喜びをバッハは見事に表現する。バッハ・コレギウム・ジャパンの演奏は極めて透明で美しい。
