ルー・リードとドビュッシー

僕は音楽的専門知識を持ち合わせていないから上手く説明できないのだが、昨日ルー・リードの「トランスフォーマー」を聴いていて、即座にドビュッシーの音楽とつながった。いや、つながったというより純粋に思い出したという方が正しい。

クロード・ドビュッシーの雲をつかむようなふわふわした音楽が後のジャズのイディオムである「モード」に影響を及ぼしたというのは有名な話。19世紀後半から20世紀の初頭にかけて途方もない実験を繰り返したドビュッシーの作品を当時の人が100%享受し得たのかどうかは知らない。おそらくマーラー同様、「時代が彼らに追いつく」のを何十年も待たねばならなかったのかもとも思われる。僕自身も長いクラシック音楽愛好人生においてドビュッシーに開眼したのは不惑を越えてから。軸が確固としたものにならないうちはそれこそあの浮遊感が碌な影響を与えないのかも(笑)。

ところで、ドビュッシーはエドガー・アラン・ポーに心酔していた。晩年には「アッシャー家の崩壊」のオペラ化まで企てたが結局完成に至らなかった。ポーのほとんど麻薬漬けのような狂気の詩作などは、同じく非凡なステファヌ・マラルメの「牧神の午後」の音楽化を試みた彼にしてみれば、当時のドビュッシーの普通でない心理に見事に合致したのだろう。そして、実はルー・リードもポーに触発されて作品を作っていたのだと知ったのはつい最近。

ルーは言う、「大鴉(原題”The Raven”)のなかで登場人物はアヘンを吸っていると思うね」、「彼なら当時コカインを持っていただろう」と。実際、ポーが存命中の19世紀前半はコカインやアヘンなど法律的に規制されることもなくやりたい放題だったのだろうし、彼の怪奇幻想の世界というのは「クスリ」の力を借りなければ出て来ない代物だとも思う。

ということで、ポーを中心にしてドビュッシーとリードがやっぱりつながった。

ドビュッシー:
・前奏曲集第2巻(1910-12)
・レントより遅く(1910)
・英雄の子守歌(1914)
・6つの古代碑銘(ピアノ独奏版)(1914)
ミシェル・ベロフ(ピアノ)

ベロフがDENONに再録音した全集からの1枚。ちょうど100年前の、古くて新しい傑作たちが耳元で囁き、時に叫びをあげる。「春の祭典」のスキャンダルに負けず劣らず、ここには前衛の色濃い影が落ちる。何て素敵な音楽たち。
ドビュッシーを聴くと、ヴェルヴェッツを、そして結果、アンディ・ウォーホルを思い出す。


6 COMMENTS

雅之

こんばんは。

>軸が確固としたものにならないうちはそれこそあの浮遊感が碌な影響を与えないのかも

逆だと思いますね。「軸」という固定観念が、むしろ邪魔なんじゃないでしょうか?
軸がぶれようがぶれまいが、そんなことほとんどの人たちの音楽鑑賞にはどうでもよいことなのでは?

ところで、「軸」ってどんな元素で構成されているのでしょうか?

コカインは分子式C17H21NO4 アヘンの主成分のひとつモルヒネの分子式は C17H19NO3、他のほとんどの麻薬や覚せい剤、向精神薬も同じようなもの。水素、酸素、炭素、窒素の化合物、人間は偉そうなことを言っていても、所詮こんなものに精神が左右されるわけです。そして人間の成分の約7割もH2O。残りも多くが有機化合物の元素。これらの元素の組合せによる化学反応と絶え間ない流れじゃないですか、人生なんて。

人間の固定観念が作り出した常識という「軸」から次々と開放させてあげて、音や元素を新たに化合させて未知の成果を得る、それが音楽史であり科学史だったのかもしれません。

ある時はピアノの主成分、またある時は熱く流れる血液の元素、そう、見かけによらず本当は柔らかい精神の持ち主である「鉄」君も、この意見に同調してくれました。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。

>「軸」という固定観念が、むしろ邪魔

ここでいう軸というのは「概念」じゃないんですよね。自分の真実というか何というか・・・。
音楽鑑賞にはどうでもよいことなのかもしれませんが、「わかる」にはそういう状態が必要なようにも思います。
少し横柄な言い方、考え方に聞こえるかもしれませんが。

>人間の固定観念が作り出した常識という「軸」
よってこの場合は「軸」ではなく、「枠」あるいは「幻想」といった方が良いように思います。

ただし、
>音や元素を新たに化合させて未知の成果を得る、それが音楽史であり科学史だったのかもしれません。

については同感です。

>ある時はピアノの主成分、またある時は熱く流れる血液の元素、そう、見かけによらず本当は柔らかい精神の持ち主である「鉄」君も、この意見に同調してくれました。

さすが!うまいこと言いますね。

返信する
雅之

>ここでいう軸というのは「概念」じゃないんですよね。自分の真実というか何というか・・・。
音楽鑑賞にはどうでもよいことなのかもしれませんが、「わかる」にはそういう状態が必要なようにも思います。

ハハハ、全く違う意見です。「自分の真実」がなんぼのもんじゃって感じ。
たとえば岡本さんは、演歌のヒット曲を聴いて、生粋の演歌ファンのように共感できますか?

クラシックやロックで培った「自分軸」、モノサシが邪魔してるでしょ。つまりその「軸」こそが差別を生み、「バカの壁」(よくいえばプライド)を形作っているんではないですかね。

「ブルックナーを楽しむのに、何もベートーヴェンから入る必要はないんだ」
これは大昔、楽屋にサインをもらいにいった時、朝比奈先生がおっしゃった言葉です。

もちろん、自分で演奏するなら話は別で、スポーツと同じく基礎が大切ですがね。

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雅之

さっきの朝比奈先生の言葉は、私が1981年か82年に先生指揮名古屋フィルのブルックナーの8番を聴きにいった時、演奏終了後、楽屋で、中学生や、なかには小学生のファンも大勢いるのを見て、先生がその素直な感性について嬉しそうにおっしゃっていた時の話です。

ドビュッシーを小学生が堪能したって悪くないでしょ。

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岡本 浩和

>雅之様
こんにちは。
言葉の選択を誤りました。自分の真実じゃないです。それだとおっしゃるとおり「なんぼのもんじゃい」です。ほんとは所有格はいらないですね。
「自分軸」とモノサシは同義じゃないんです。モノサシは邪魔するけど、「自分軸」は邪魔しないというか・・・。
わけわからん答ですね、これじゃ(笑)。
上手く説明できません。失格です(汗)
別の機会に・・・、といって逃げます・・・(苦笑)

しかしながら、朝比奈先生の言葉重みがあります。

>ドビュッシーを小学生が堪能したって悪くないでしょ。

そうですね。年齢は関係ないですね。

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