
大宇宙と小宇宙はフラクタルだ。
宇宙の理と人体の性はまったく同じものゆえ、フラクタルというのは当然なのだと理解したのは(僕の場合)50歳を超えてからだ。
孔子曰く「五十にして天命を知る」。
どこまでも無限に拡大する宇宙に対し、どこまでも無限に縮小するのが生命だ。
バッハの6つの無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ。
久しぶりにヘンリク・シェリングの新しい方の録音を聴きながら、人類の至宝だと思った。
ロッシーニは語る(対ワーグナー)。
もっとも、自分がモーツァルトでない限り、教えを受けてもそれが有益とはならなかったことでしょう—貴方のお国の話ついでに、バッハについて言えば—彼は圧倒的な天才です。ベートーヴェンを人類における奇才とするなら、バッハは神の奇跡です! 私は、バッハ作品の大出版企画の購読者です。ご覧なさい・・・まさに、そこ、私の机の上、最新巻です。申し上げるまでもないでしょう? 次の巻が届く日は、再び、私にとって、無類の愉悦の日となるのでしょう。この世を去る前に、どんなに、バッハの偉大な樹奈曲の全編演奏を聴きたいことか! しかし、ここ、フランスでは、実現不可能でしょう・・・」
~エドモン・ミショット/岸純信監訳「ワーグナーとロッシーニ巨星同士の談話録(1860年3月の会見)」(八千代出版)P36
あの時代はバッハの受難曲全曲を聴くのは至難だったようだ。
バッハの偉大な作品の中でも、その最右翼が受難曲であり、最左翼は無伴奏作品ではなかろうか、そんなことをまた思った。
無心、無我、無為。
その中の峻厳さ、森厳さ、兎にも角にもバッハの内なる厳しさを体現するシェリング。
意志は、認識によって光をしだいに照らされてくるいかなる段階においても、個体として現象している。そして人間という個体は、無限の空間と無限の時間のただなかに有限な存在として投げこまれているのであって、したがって時空の無限に比すればほとんど消滅しそうなほど小さな量の存在として、その中へ投げこまれていることに気がつくだろう。そして人間という個体は時空のこのような無限界性のゆえに、いつもただ相対的ないつとどことを有しているだけなのであって、けっして彼は絶好的な意味での時間や場所をもつことはできないのである。彼の場所と持続とは、無限なるもの、限界を知らぬもののなかの有限な部分でしかないからなのである。
~ショーペンハウアー著/西尾幹二訳「意志と表象としての世界III」(中公クラシックス)P3
人間とはなんと小さな存在なのだろう。
傲慢である勿れ。
謙虚であれ。
すべては一つなんだということを、バッハは教えてくれる。
(こんな音楽を編み出せるのは人間ではなかろう)
愛の悦び 