匂い、音

「匂い」や「音」というのはとても不思議なもので、過去の様々な体験を瞬時に思い出させてくれる。新宿という都心に住んでいても場所によっては懐かしい「虫の音」が聞こえてくる。25年近く東京に住んでいて、長い間聞いていなかった「虫の鳴き声」。昨晩、開け放った窓外から突如虫の音が聞こえたとき子供の頃の田舎の生活をふと思い出した。

音楽の原体験も同じようなものなのだろう。クラシック音楽を聴き始めて間もない頃、つまりまだまだ右も左も知らなかった時分、FM放送が専らの音源であった当時いわゆるエアチェックに日々勤しみ、来る日も来る日も音楽漬けの毎日を過ごしていた。
その頃初めて聴いた音の記憶はその楽曲に対する模範演奏にどうしてもなってしまいがちで、世に名盤といわれる音盤が数多ある中、自分の記憶に合致する演奏をついつい追ってしまうのはいたしかたないことなのかもしれない。

モーツァルト:ピアノ協奏曲第27番変ロ長調K.595
アリシア・デ・ラローチャ(ピアノ)
サー・ゲオルグ・ショルティ指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

先日書いたクラリネット協奏曲と同じくモーツァルトの死の年に書かれ最後のピアノ協奏曲であり、仰々しい言い方が許されるなら、何か「能」の世界に通じる「寂漠たる感覚」を思い起こさせる透徹した涼しさをもつ音楽なのである。
そして、バックハウスやバレンボイム、ハイドシェックら数多のピアニストが評判の高い音盤を残しているが、どういうわけか僕にとってのこの曲の原点はラローチャ&ショルティ盤。ラローチャもショルティも特別愛着のある演奏家では決してない。しかし、この曲に限っては決定盤とあえて言っておく。

※CDは廃盤のようである。

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4 COMMENTS

アレグロ・コン・ブリオ~第4章 » Blog Archive » ハイドシェックのK.595

[…] そういえば、ちょうど20年前に宇野功芳指揮新星日響のバックで(!)エリック・ハイドシェックの独奏によるモーツァルトのK.595を新宿文化センター大ホールで聴いた。宇野さんが後々まで「大変だった」と語る、手に汗握るような即興的解釈が頻出する演奏だったので、いくらなんでもやり過ぎではないかと思う反面、こういうのはライブならではで、エリックの神業的パフォーマンスをこれでもかというくらい堪能できた一夜だったので、とても満足して帰路に着いたことを思い出す。 あれに比べると、昨日Blu-rayで観たバレンボイム&ベルリン・フィルも生温いし、以降実演でも何回かこの曲を聴いたと記憶するもののあの体験を越させてくれるコンサートには出会っていない。 10代の頃、クラシック音楽を聴き始めの頃、ご多分にもれずモーツァルトにぞっこんだった時期があるが、きっかけとなったひとつはNHK-FMで初めて耳にしたラローチャ&ショルティによるK.595があまりに素晴らしかったことで、またひとつはちょうどその頃吉田秀和さんがかの「名曲のたのしみ」でずっと長い間モーツァルトの作品を採り上げており、それをしばらくエアチェックして好んで聴いていたことだった。 嗚呼、懐かしい。 […]

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アレグロ・コン・ブリオ~第4章 » Blog Archive » モーツァルトは難しい

[…] 10代の頃、クラシック音楽を少しずつ聴き始めた頃、ご多聞にもれず音楽蒐集の対象はヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトだった。ワルターの「アイネ・クライネ」やベームの第40番に度肝を抜かれて、というよりその美しさに聴き惚れて、ラローチャ&ショルティの第27番協奏曲に出逢ったのをクライマックスにして、年がら年中モーツァルトをスピーカーから流していた。あの頃がとても懐かしい。 30年前の確か今頃、初めて生のオーケストラの音を聴いた大阪国際フェスティバルでのムターによる協奏曲の夕べのプログラムはモーツァルトの第5番とブラームスだった。多分、アンコールもあっただろうが、全く記憶にない。この時はすでにモーツァルトへの熱も一時期よりは下降気味でお目当てはブラームス。痺れた、泣いた。あの時のフェスティバルホールの光景、中之島の風景はいまだに忘れられない思い出だ。 […]

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