「《ドン・ジョヴァンニ》や《コシ・ファン・トゥッテ》にのようなオペラは私には作曲できないでしょう。こうしたものには嫌悪感を感じるのです。—このような題材を私が選ぶことなどありえません。私には軽薄すぎます」。
(1825年5月、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンからルートヴィヒ・レルシュタープ)
アッティラ・チャンパイ/ディートマル・ホラント編 名作オペラブックス9 モーツァルト「コシ・ファン・トゥッテ」(音楽之友社)P247
ベートーヴェンの本音。
果して彼が「楽聖」と呼ばれる所以はこういうところにもあるのだろうと思う。
しかし、晩年のモーツァルトが、まもなく「魔笛」を生み出すモーツァルトが、まさか何も考えず、適当に、ダ・ポンテの台本に音楽を付したのでないだろうと僕は思う。舞台の状況だけを見るなら確かに取るに足らない、あまりに俗っぽい、深遠さなどほど遠いものだ。しかし・・・、
ザルツブルク、1972年 ギュンター・レンネルトGünther Rennertによる《コシ・ファン・トゥッテ》の演出では、二組の恋人たちの関係は度し難い、もはやときほぐし難いほどの混乱に陥っている。恋人どうしが別れの苦しみに満たされて互いにかき抱きあおうとする時すでに(第9番)、相手をとり違えていたことにひどくびっくりして気づくありさまなのである。とり違えが続く芝居の中にレンネルトもまた、深淵を越えてなおも幸福な喜ばしい結末を見出そうとするモティーフを見つけている。実際、グリエルモとフェルランドはつまずいた恋人たちを許すのではなく、男性も女性同様芝居に夢中になっていたのだから、自分たちにも、少なくともフィオルディリージやドラベルラぐらいの寛容さが必要だと納得するのである。彼らは、〈女はみんなこうしたもの〉という文句は自分たちにも当てはまること、《女はみんなこうしたものCosì fan tutte》は本来《人はみんなこうしたものCosì fan tutti》の意味に違いないことを知る。そうしたものなのは女性だけではなく、われわれ人間すべてがそうなのだ。
レオ・カール・ゲルハルツ「心とは広い国・・・—モーツァルト《コシ》の身近な広大さと美的徹底性」
~同上書P42-43
間違いなくベートーヴェンはこのオペラを誤解していたのだろうと思う。
この世を、人生というものを喜劇だと見破ったベートーヴェンにあって、尊敬するモーツァルトまでが同様の境地に達していたことは盲点だったのではなかったか。「寛恕」こそが自我脱却の鍵だとモーツァルトは知っていた。そして、レンネルトの演出のように、「コジ・ファン・トゥッテ」こそが「フィデリオ」の前哨となる、人類の救済の狼煙となる傑作の一つだったのではないかと思うのだ。
1974年のザルツブルク音楽祭。
ザルツブルクは祝祭小劇場での、カール・ベーム80歳の誕生日当日のライヴ録音。
音楽は生命力に満ち、モーツァルトらしい可憐さと皮肉を湛え、定評ある62年のスタジオ録音盤を上回る素晴らしさ。
例えば
ドン・アルフォンソ(パネライ)がドラベルラ(ファスベンダー)の手をとりながら歌う「お嬢様、お手をどうぞ」に始まる第2幕第4場第22番四重唱は、歌手各々が心情を丁寧に表現し、見事だ。
そして、第2幕フィナーレ!
貞節を主題にしたオペラで、特に19世紀には不人気だった作品だが、ここに描かれる男女のドタバタこそが人間世界の常であり、すべてが芝居であったとしても、あるいはそうでなかったとしても、種明かしがある最後の和解のシーンは、やはり「許し」、すなわち「慈しみ」こそが人の本性だということを見事に描き出すものだと思う。
ものごとすべて
理性でかたづけ、
人の良い面のみ見ている者は
仕合せ者よ。
彼には笑いの種だし、
人を泣かせるようなことでも、
竜巻のような世の中でも
冷静に落ち着いてすごせるさ。
~同上書P189
実に意味深い言葉だ。
ベーム指揮フィルハーモニア管のモーツァルト「コジ・ファン・トゥッテ」K.588(1962.9録音)を聴いて思ふ ベームの「コジ・ファン・トゥッテ」(1974Live)を聴いて思ふ