こころ

「ホロヴィッツ・イン・モスクワ」を観る。

マエストロ・ホロヴィッツが1986年、60年ぶりに祖国で開いた凱旋コンサートのドキュメントである。モスクワの聴衆の熱狂振りは大変なものである。しかも、その熱心な「聴く姿勢」はなおさら感動的だ。

ちょうど同じ年にホロヴィッツは2度目の来日を果たしている。その3年前、奇跡の初来日を決行した彼の演奏会は5万円という高価なものであったにもかかわらず、NHKホールでのチケットは即日完売、その人気たるや熱烈なものであったと記憶する。当時しがない貧乏大学生だった僕は当然入場の権利を得られるはずもなく、NHK教育テレビで生中継された映像を食い入るように見ていたことを昨日のように思い出す。
果たしてその演奏は、「愕然とする」ものであった。某音楽評論家が「ひび割れた骨董」と評した言葉が今でも語り草となっているが、なるほどうまいことを言うもんだと感心したものだ。

しかし、1986年のホロヴィッツは違っている。心身症を克服した彼は、ミスタッチも多く全盛時とまでは流石にいかないものの、かつての精気を取り戻し、そのヴィルトゥオーゾぶりは健在であった。
1曲目のスカルラッティからモーツァルトを経て、ラフマニノフ、スクリャービンと聴かせる前半。そして、シューベルト、リスト、ショパンへと続く後半。80歳を越えた老人の枯れた境地とでも言おうか、感動的な舞台が繰り広げられる。

演奏の立派さもさることながら、僕が興味を持ったのは聴衆の態度、姿勢である。奇しくもソ連共産主義の黄昏時期。いわゆる「自由」というものを奪われ、人民が国家に管理されていたあの時代。スターリン時代とまではいかないまでも人々の暮らしは決して楽ではなかったはずだ。しかしながら、そういう時代であったがゆえに、一方で「大切なもの」、「感動するということ」、「芸術」という「目に見えないもの」に自らの「心」を投影する「こころ」が人々の中に残っていたのかもしれない。

アンコールの「トロイメライ」で涙する男性を見るがよい。
現代の日本人が失ってしまった「こころ」がこの中にある。

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