
ホロヴィッツは相当自己中心的な人だったようだ。
最晩年のドキュメンタリーなどはその片鱗を窺わせるが、ピアノを弾くこと以外の一般生活にはおそらく無頓着だったのだと思われる。老年の好々爺たる趣きは他人から見れば可愛いものだが、身近な人たちは大変だったのかもしれない。
その芸術は、まったくそういう俗的なものを超越しているのだけれど。
殊に壮年期の演奏はどれも超人的だ。
カルラの健康は衰え始めていた。彼女は夫より十歳若かったが、相当太り過ぎで高血圧などの病気を患っていた。一家をよく知る誰もが、マエストロ及び妻と親密な誰か—できれば彼らの子供の一人—が彼らの援助に対応できなければならないと実感していた。ヴァリーは戦火にまみれた欧州で動けなくなっていた。そして、ヴァンダは自分のことしか考えない夫に終日関わっていた。それで、残るはヴァルテルだった。彼は、彼の父と母から安全に離れて暮らしているうちに彼の自立を重んじていたが、彼らがますます彼に依存していることを理解した。1年前、彼の両親は彼に代理権を与えており、時が経つにつれていよいよ責任が彼の双肩に掛かっていた。
~ハーヴィー・サックス/神澤俊介訳「トスカニーニ 良心の音楽家(下)」(アルファベータブックス)P373
戦時中のトスカニーニ家は、どこの家庭にもありそうな諸問題を抱えていた。
それでも父トスカニーニの音楽の壮絶さは変わりなく、情熱に衰えはなかった。
父トスカニーニは1943年4月4日、彼のNBC交響楽団コンサートを再開した。翌週、彼の演目にはカバレフスキーのオペラ、《コラ・ブルニョン》の序曲の米国初演が含まれた。そして、25日に彼はもう1回の慈善コンサートをカーネギー・ホールで行なった。すべてチャイコフスキーの演目の座席は、米国政府の戦時公債の購入によってのみ得られ、一千万ドル以上が販売された。トスカニーニは、五番街の戦時貯蓄スタッフの事務所に直接出向いて公債5万ドルを買い、それによって家族のためにボックス席を予約した。休憩時間中—「悲愴」交響曲とホロヴィッツを独奏者とするピアノ協奏曲第1番の間—に、トスカニーニの「星条旗」管弦楽編曲の手書き原稿が競売にかけられ、戦時公債がもう百万ドル売れた。それから、6月中旬から9月中旬にかけて彼は無報酬で、戦時公債の放送販売を促進するための4回の1時間特別放送でNBC夏季交響楽団を指揮した。スタジオ8Hの座席はもっぱら軍服の男女ようだった。
~同上書P373-374
どんな情況にあってもコンサートは粛々と開かれた。
もちろんそれが仕事だったからだが、特別放送では無報酬だったことを忘れてはなるまい。
チャイコフスキーは、いかにもというホロヴィッツらしいテクニックを披露し、自由奔放といえるが、それをサポートするトスカニーニの棒は意外にも冷静に見える。
第1楽章アレグロ・ノン・トロッポ・エ・モルト・マエストーソが終わった直後の拍手喝采は、フライングというよりむしろホロヴィッツの怒涛のピアノに感極まってのものと推測される。
第2楽章アンダンティーノ・シンプリーチェの愁いと、終楽章アレグロ・コン・フォーコの熱狂は戦時ということもあるのか、ホロヴィッツとトスカニーニの丁々発止が目の当たりにできる名演奏。
録音の有様が古臭く聴こえるのはご愛敬(?)。

