
そういえば、かつて音盤がリリースされた当時、吉田秀和さんはギレリスの最後の録音を大絶賛されていた。当時の僕はこの批評をすっかり見落としてしまっていたのだが、何年も経過して全集の中であらためて読み、ようやくこの録音を聴いて、心底感動したことを思い出す。
以上の二人(クレーメルとアファナシエフ)は以前ふれたマイスキーらと共に祖国脱出組に属するが、最後まで踏みとどまった大家ギレリスのピアノは巌の如く力強く、一切の恣意を排除して音楽の精神の尊厳を守りぬこうとする姿勢が感動的だ。彼はベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲録音を計画、晩年の十年を通じ大部分を仕上げたところで去年10月69歳の誕生日直前に死んだ。その最後の仕事の何枚かが出たが、なかで作品109、110を入れた一枚が最高。かつての「鉄の人」がよりおそいテンポとより流動的な運びで、あの晩年のベートーヴェンの切々たる「嘆きの歌」を歌う。しかも基本はあくまで厳正、音も澄みきった鏡の如し。
(今年のCDから)
~「吉田秀和全集20 音楽の時間II」(白水社)P441
この短い文章の中に、エミール・ギレリスのベートーヴェンの類稀さが大いに語られている。
(兎にも角にもあの最後の録音は最高だ)
吉田さんは、この音盤について別の記事でも詳らかに書いていらっしゃる。これがまた当意即妙の、本当に素晴らしい批評で、僕はとても納得する。
この仕事は延々13年にわたって続けられていたが、それでも、彼が死んでみると、あとまだ5曲のソナタの仕事が残った。その中には最後の作品111も含まれる。彼に死なれてみると、この曲をききたかったという気持が一層つのる。本当に惜しいことだ。いつぞや出た作品106の『ハンマークラヴィーア・ソナタ』は非常な名演だった。せめて、それをもう一度きき直して、慰めようと思いかえしはするのだが。
~「吉田秀和全集19 音楽の時間I」(白水社)P159-160
まったくもって同感。
思わず僕もかの音盤を取り出した。
ベートーヴェン:
・ピアノ・ソナタ第28番イ長調作品101(1972.1録音)
・ピアノ・ソナタ第29番変ロ長調作品106「ハンマークラヴィーア」(1982.10録音)
エミール・ギレリス(ピアノ)
本当に非常な名演奏。
最後の録音のときと同じく、悠々たるテンポで音楽はそこはかとない表情を湛えながら、人間の深層を抉るように進む。
ギレリスの弾く「ハンマークラヴィーア・ソナタ」は歌に溢れ、祈りに満ちる。
ある種晦渋な、長尺のソナタは、聴く者に時間を忘れさせる。雄渾な第1楽章アレグロは刹那(悠久の時間でもあり、またあっという間でもある)。
短い第2楽章スケルツォの、あまりに人間的な響き。何かを訴えかけんとする中間部の囁き(これも壮絶だ)。
第3楽章アダージョは、一つ一つの音を丁寧に、そして思念を込めて奏されるが、まるで天上から発せられる希望の光を見るようだ。(あまりに美して卒倒しそう)
そして、終楽章は、ラルゴ—アレグロ・リゾルートと、楽想の変化と共に自在に飛翔し、沈潜する見事なピアノにギレリスの天才を思う。(楽聖渾身のフーガが含まれるこの楽章を繰り返し聴くことが重要だと僕は思う)
ちなみに、吉田さんは、ギレリスのベートーヴェンについて次のように書く。
私は彼のベートーヴェンを全部きき通してきたとはいえないので、何時ということは自信をもってはいえないのだが、とにかく、ある時期から、ギレリスのひき方に、これまできかれなかったものを感じさせるものが出てきたように思う。
それはテンポの遅さとともに、表情にある種の余裕が生まれてきた点である。
~同上書P162
孔子は、「五十にして天命を知る」「六十にして耳順う」といったけれど、おそらく50代から60代に入って、ギレリスにもそういう状況が生じたのだろうと僕は思う。
吉田さんのこの音盤にまつわる論は続く。そして最後に次のように結ばれる。
ベートーヴェンは、このあと、作品111のソナタ—私たちが彼のピアノ・ソナタ全曲の王冠と考え、愛してきたソナタを書く。だが、ギレリスは、このあと1ヵ月したかどうかで死んだ。最後のソナタをひく仕事はやり残したまま。私はもう一度、彼の最後の写真をみる。恐ろしい写真である。もう一方の作品10-1や49-1と2を入れたCDの肖像写真は病気の人をとったものだが、こっちは違う。ここで、ピアノの大家がみているものは、写真家でも、まして、私たちでもない、私たちの背中の方にあり、私たちにはまだ見ることを許されていない「あるもの」の姿だ。
~同上書P165
「あるもの」とは、謎に包まれた、読み手を突き放したような言い方だが、吉田さんは「あの世」と言いたいのだろうか?
ベートーヴェンが今あるのは「理」の世界だ。残念ながらギレリスはそこにいない。
そして、吉田さんもそこにはいない。
