自然対人間

mahler_rattle_10.jpgハイ・エンド・オーディオの追求は底なしで、はまりこんだら抜け出られなくなると江川先生はおっしゃっていた。男のロマンと言ってしまえばかっこいいが、いつまでたっても理想の答は見つけられないということらしい。その道50年の大家が語っているのだから信憑性は大いにある。アンプやらスピーカーやら、あるいはプレーヤーやらどんなに大枚はたいて手に入れたとしても、全てが完璧に再生されるということはありえない。こっちを磨けばあちらがぼけてしまうというようにキリがない。結局、機械は環境(再生する場所やら状態やら)に依っているんだということにようやく最近になって先生は気づいたらしい(人間は歳をとって枯れてきてやっと「悟り」を開くのだろう)。自然の前ではなす術もない人間の弱さか・・。いや、そんなことはあるまい。自然と戦わず、共生すること。オーディオの世界に限らず、どんなことでも同じことがいえるのではないか。

マーラー:交響曲第10番嬰ヘ短調(クック版)
サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

マーラーは若い頃から作曲活動に限らず、生活のための指揮活動も一生懸命にやりきった。自己主張も激しかったゆえ、劇場側とのトラブルも絶えなかったようだが、ともかく自己を貫くという意味では立派な人間だったといえる。アルマとの結婚に際しての有名な「関白宣言」レターなどは、今の世の男性にもよくあるパターンの、自分に全面的に従うよう結婚後の生活に関する要求を突きつけたもので、よくもまぁアルマが素直に従ったものだと感心させられる(19歳という年の差がそうさせたのかもしれない)。しかしながら、こういう家庭での締め付けが遠因となって後に建築家のヴァルター・グロピウスと不倫の仲になってしまうのだから、いくら「不安」でも人間をコントロールすることはできないということを理解するべきだったろう。
アルマとの関係が絶好時に創作した数々の名交響曲。そしてこの若き妻に不信感を抱いた後、諦念から生まれ出た晩年の「死」に向き合った交響曲。どれもが傑作だと信ずるが、ここに挙げたのは作曲者自身の死により完成することができなかった最後の交響曲第10番。
音楽学者のデリック・クックが補筆完成した版によりサイモン・ラトルが就任間もないベルリン・フィルハーモニーを振ってのライブ録音である。この音楽に関しては僕自身まだまだ完全に知り得たとは言えない。しかし、少なくとも作曲者自身が完成した第1楽章アダージョに関しては、死を目前にしたマーラーの「自然との共生」に至る境地が木霊するような美しい音楽である。

⇒旧ブログへ


コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む