トスカニーニ指揮NBC響のワーグナー「パルジファル」(抜粋)(1940.3.23Live)を聴いて思ふ

アルトゥーロ・トスカニーニが最後にバイロイトの指揮台に立ったのは1931年の「パルジファル」。指揮者がイタリア人だということだけで古くからの聴衆は解釈に疑問を投げかけたそうだが、批評家たちは絶賛したという。そもそもトスカニーニは、若い頃からワーグナーの音楽に心酔しており、息子ジークフリートが彼の指揮する「トリスタンとイゾルデ」に感動したことからワーグナー家との関係が密接になったというのだから、トスカニーニの指揮する「パルジファル」や「タンホイザー」が悪かろうはずがない。
しかし、トスカニーニは、残念ながらその年を最後にバイロイトを去った。

ジークフリート・ワーグナーの死から1年が経つ8月4日に、彼の追悼コンサートがひらかれることになっていた。トスカニーニがワーグナーの《ファウスト序曲》を、エルメンドルフがジークフリート・ワーグナーの《聖リンデ》前奏曲とリスト(ジークフリートの祖父にあたる)の《オルフェウス》を、フルトヴェングラーがベートーヴェンの交響曲第3番《英雄》を指揮する予定だった。しかし、トスカニーニは、リハーサルの手違いなどで気分を害し、この追悼コンサートでの指揮をキャンセルしてしまう。トスカニーニのキャンセルの真相について、ダニエラやフルトヴェングラーが述べているが、それぞれの立場によって話がずいぶん違う。
山田治生著「トスカニーニ―大指揮者の生涯とその時代」(アルファベータ)202

今となっては本当の理由は誰にもわからない。しかし、一番は当時のバイロイトの(ワーグナー家のナチスのホロコーストにも通じる)ドイツ至上主義によるヴィニフレートのトスカニーニに対するひどい扱いに彼は腹を立てたのだろうと思う。

トスカニーニのワーグナーは素晴らしい。
確かにフルトヴェングラーのようなデモーニッシュな雰囲気は表出されない。あるいは、クナッパーツブッシュのような堂々たる威容とはまた別ものだ。何よりニーチェの言うアポロン的な、明朗でありながら暗い熱狂が芯にあり、聴く者を新たな地平に誘う。そう、彼のワーグナーには、ワーグナーの思想の根底にあった(であろう?)反ユダヤ主義が完全に否定されるのである。

「コジマの日記」を繙くと、次のようにある。

昨日カストナー夫人から聞いた奇妙な話。彼女があるユダヤ人の店に入り、一着の服を買うことで女主人と話がついたとき、旦那が出てきて、「おたくのご主人はワーグナー氏のところに出入りされてますよね」とたずねた。「そうですが」と答えると、この服は売るわけにはいかないと言い、フリッチュの新聞の記事のひとつを引いてみせ、「ワーグナー狂の無法ぶりをこんなにも長くのさばらせた、その報いを受けるがいい」と吐き捨てたという。こんなことをされて、善良な人間にいったい何ができるだろう。
(1872年10月27日日曜日)
三光長治・池上純一・池上弘子訳「コジマの日記3」(東海大学出版会)P396

得てして問題は取り巻きが起こすもの。いわば教祖となっていたリヒャルト・ワーグナーの真意は果たしてどうだったのか?彼の巨大で妄言の如くの楽劇と同様、(昨今の政治家のような)失言が羽を持ち、伝言ゲームのように歪んで伝えられたものなのかどうなのか(ワーグナーの「反ユダヤ主義」については僕自身の勉強不足で今の時点で答が見つからない)。

一切の虚飾を排した灼熱の「パルジファル」。

ワーグナー:
・歌劇「さまよえるオランダ人」序曲(1946.3.31Live)
・歌劇「タンホイザー」第3幕前奏曲(原典版)(1953.11.29Live)
・舞台神聖祭典劇「パルジファル」抜粋(トスカニーニ編)(1940.3.23Live)
—第1幕前奏曲
—聖金曜日の奇蹟
—第2幕前奏曲
—第3幕前奏曲
—クリングゾールの魔法の庭
—第3幕終曲
アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団

トスカニーニによって交響詩のように統合された「パルジファル」の根底に流れるのは平和への祈りと希求だ。「聖金曜日の奇蹟」の、時間の経過とともに意味深さを増す音楽に僕は涙した。

私にとってワーグナーは神的なものだ。彼の音楽は私の宗教なのだ。私は別の教会に行くようにワーグナーの上演に行く。
ヨアヒム・ケーラー/橘正樹訳「ワーグナーのヒトラー—『ユダヤ』にとり憑かれた預言者と執行者」(三交社)P240

アドルフ・ヒトラーの妄信ぶりはある意味異常だ。

「ワーグナーを崇拝していた」ユダヤ人ヴァイニンガーは、ワーグナーとチェンバレンを知ることによって(彼はウィーンにおけるチェンバレンのサークルに属していた)反ユダヤ主義的著作「種族と性格」を書いたが、その本によれば、世界のすべての悪は一様にユダヤ人と女性の中に体現されているという。「音楽におけるユダヤ性」と「19世紀の基礎」からふんだんに養分を採ったベストセラー「種族と性格」によってヴァイニンガーは、ワーグナーのオペラの中にその世界観がいかに強く表れているか、ということを証明した。
~同上書P273

総ての根源は一である。そもそも明文化できない真理を言葉にしようとした教祖にも問題あろうが、それ以上に闇雲に心酔した(都合良く解釈した)周囲により問題があるのではないだろうか。
ワーグナー最晩年の論文「汝自身を知れ」(1881)には次のようにある。

・・・ユダヤ人にだけ責任を押しつけようとする傾向が見られる。たしかにユダヤ人は、私たちが能なしである分野において達人である。もっとも無から金銭を生み出す技を発明したのは私たちの文明である。あるいはそれがユダヤ人の所為だとすれば、私たちの全文明が異邦的—ユダヤ的に混合したものであるからで、それ自体、キリスト教の独自の産物ではないわけである。
(宇野道義訳)
三光長治監修「ワーグナー著作集5 宗教と芸術」(第三文明社)P302

少なくともこの文章からは、ワーグナーが、ユダヤ性に関して否定のない(肯定もないが)中庸の立場であるように僕には思える。彼はキリスト教の堕落が芸術を堕落させたと訴えるが、おそらくそこ(宗教そのもの)には何もないことに晩年に至ってついに気がついたのだろう。トスカニーニの抜粋を聴いて思う。「パルジファル」は決して宗教的な作品ではない。ここには僕たち一人一人が教義なくして悟りに至るヒントがある。

 

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