
しばらくエレーヌ・グリモーを聴いていなかった。
彼女のリリースした最新のアルバムなども長らく聴いていない。
すっかり熱が冷めたようだ。人の感性の変転の興味深さ。昔の録音を聴くと、相応に素晴らしいと思うのだが、それにもムラがある。人はやっぱり完全ではない。しかし、人の本性は全知全能・良知良能だ。おそらく本性という琴線に触れた瞬間こそ、人に感動を与えるのだろうと想像する。
昨今のエレーヌ・グリモーの演奏はどんな感じなのだろう?
文学少女が弾く音楽は、とても文学的だ。
いかにも感覚的に見えて、実に論理的であり、まず言葉が奔出するかのような、近寄り難さがある。何て興味深いのだろう。
アルバムに寄せたエレーヌ自身による序文が素敵だ。
絶対的な意味での愛は存在しない。それはいつも「あなた」と「私」、という二つの存在の間のゲームである(愛はパッションによってのみ独自性が明らかになるのだ)。「愛する」ことは、私たちに最も相応しい「存在の法則」にしたがってこそ展開できる。つまり、愛とは、極度の苦しみの叫びではなく、完全な喜びの予感でもなく、ただパッションの啓示であり、それこそ最強の精神的体験であり、最深の知識の形であり、どんなに迷路のように複雑で嵐が吹き荒れる道であっても、最後まで貫き、明らかにし続けなければならないことなのだ。愛するとは、内的欲望、そして外的世界とともに発展する充実感を自らが開放し、体験することではないだろうか? そして、その開放を通して、夢見るような無限の我(真我)が、自ら選択した有限の存在(仮我)において具現化することではないだろうか?
「君にこうあってほしい」—この言葉は愛の言葉であり、ロベルト・シューマン、クララ・シューマン、そしてヨハネス・ブラームスがそれぞれの作品の中で、互いに向けて語った言葉である。ロベルトは妻クララに音楽そのものになってほしいと願い、クララは友人ヨハネスに音楽そのものになってほしいと願った。そしてヨハネスは、二人の友人が音符を通して、その情熱を通して、今もなお私たちの心に生き続けることを許した。それは、絶対的なものを支配しようと試み、そして、成功するすべての物語と同じく、唯一無二の愛の物語の証左だ。目が眩むほどの危険に満ちた内的世界を持つ彼らは、それぞれ独自の方法で、愛とは絶対的な贈り物であり、お互いに対してそれが最も親密な自由であることを教え合った。ライナー・マリア・リルケが「ある女友達のためのレクイエム」で明確にしたメッセージのように。
これこそが私たちが学ばなければならない最高の難事なのだ。
愛するとは、相手を引き止めないこと。
相手をただそのままに、自由に存在させてあげることなのだから。
アルバムのタイトルは”Réflexions”という。
まさに「廻光返照」、自らの本性に光を当て、照り返すことを追究するということか。
収録されたロベルト、クララ、ヨハネスの音楽に思わず僕は没頭した。
素晴らしいと膝を打った。
いずれもエレーヌの心が投影される、エネルギッシュかつパッショネートな啓示的表現。ここには確かに「夢見るような無限の我」が発露されているようだ。
ところで、相対の世界で生きるからこそ文学が成り立つのだろうが、絶対の世界を知れば、そもそもすべてが調和の中にあることがわかる。実際には、愛こそ絶対なのだ。
エレーヌ・グリモーのシューマン「ピアノ協奏曲」ほかを聴いて思ふ

