チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィル ベートーヴェン 交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」(1993.1.25Live)ほか

水と油。互いに相反するものだが、それぞれに効果効能があり、また各々は必要不可欠なものだ。

大自然にまみえた心情を描いたベートーヴェンの「田園」交響曲。
この、大自然を賛美する不朽の傑作には、(昨今僕がしばしば耳にする)両極端の、互いに相容れないであろう、しかしながらそれぞれに、感動をもたらす力が漲る2つの名演奏がある。

1992年10月末ミュンヘン・フィル日本公演の帰路、ルフトハンザのボーイング747-400のファースト・クラス・キャビンで二人の指揮者は顔を合わす。正確には・・・二人は視線を合わさぬようにしているので、顔を合わせていない。一度クライバーは煙草を吸うために後部へ行く。ちょうど同じ頃、楽団員はチェリビダッケの方から歩み寄りの第一歩を踏み出したらどうかと勧める。老指揮者は拒む。2時間後にやっと重い体を起こして、クライバーの方に行く。エンジン音がうるさくて、二人の会話の調子は他の席までほとんど届かない。聞こえたのは「なぜ貴方は何でもかんでもあんなものすごい速さで指揮するのですか?」だけ。それに対するクライバーの答えも、その後に続く会話もすべてエンジン音にかき消される。
~アレクサンダー・ヴェルナー著/喜多尾道冬・広瀬大介訳「カルロス・クライバー ある天才指揮者の伝記 下」(音楽之友社)P195

このときのクライバーの答えはどんなものだったのだろう?
とても気になるところだ。

もちろん、チェリビダッケはカルロス・クライバーについて自分の意見を持っている。「彼は私に言わせれば、とんでもない指揮者。あんなものすごいテンポでは誰も何も受け止められません。クライバーは聖なる音を無視しています。悲劇だと思います。彼は音楽が何たるかを知らないままなのです」。
クライバーは、そして指揮者はみな彼の様に指揮をしなければならないのか? そうして初めてその価値を評価してもらえるのか?
「いいえ。みんなが私の側に立って私を支えてくれることを望んだとしたら、私はばかでしょう。しかし私はばかではないのです」。ただし時として猛烈な芸術判官。

~同上書P195

チェリビダッケはばかではない。もちろんクライバーも、だ。
解釈という、つまり思考というフィルターを介しての芸術は種々多様であり、すべてに意味があることは今ならわかるのでは? 音楽の良し悪しはテンポでは決まらない。それは確かなことだ。

それは、カルロス・クライバーたった一度きりの「田園」交響曲を聴けばわかる。
決して良いとは言えない音質ながら、猛烈なスピードの演奏ながらベートーヴェンの音楽は欣喜雀躍として弾け、聴衆に喜びをもたらしてくれる。終演後の、フライング拍手なのかどうなのか、ぱらぱらと降った拍手の後の静寂、その後の猛烈な喝采、こういうドキュメントは貴重だ。

クライバーの子供たちは父の指揮で《田園》を絶対に聴きたいと望んだと言われている。彼はこうして格別の一夜の演奏会を催した。エーリヒ・クライバーの時代以来、この作品がフルトヴェングラーの重厚な世界から遠く離れ、これほど光と明るさを帯びた美しさを放ったことはなかった。クライバーの父はまさにこの《田園》で、これまでだれも及ばぬ境地に達していたように見えた。しかしクライバーはこのたった1回の演奏会で父と少なくとも対等となり、このオーケストラにもまたミュンヘンの聴衆にもこの作品のまったく新しい一面を示し、ここ数年のさまざまな演奏会のすべての演奏に優って輝き渡る一夜となった。「南ドイツ新聞」はこう報告している。「これ以上に速いベートーヴェンの《田園》はめったにない。(中略)何かが見落とされている懸念なしとしない—心地良い牧歌の描写や、彩り豊かに流れゆくファンタジーなどが。だがそのかわりエネルギッシュな躍動、かさにかかった疾駆、あおるような熱気が張り出している。(中略)あおるといってももちろん神経質な痙攣とは別物で、陶酔的で白熱的な燃焼がある。作品の表情はくりかえしテンポを上げることで強調され、にもかかわらずリズムの基本となる正常な鼓動は守られている。クライバーは透明感を失わず、軽やかな弾みの付いた響きが他のべたついた印象のベートーヴェンのパトスの表現と大きく隔たっている」。ヴォルフガング・シュライバーによるこの論評以上に、他の新聞各紙はこの演奏会に熱狂的な賛辞を捧げた。
~同上書P195-196

その場に居合わせた人たちは、その音楽の半端でない推進力と爆風のような音圧の強烈さに誰もが卒倒したことだろう。

・ベートーヴェン:交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」
カルロス・クライバー指揮バイエルン国立管弦楽団(1983.11.7Live)

ミュンヘンはバイエルン国立歌劇場でのライヴ録音。もう一度でも二度でもカルロス・クライバーに「田園」を振ってほしかった。

幸運なことに、マスターテープに加えて、クライバーの息子のためにコンサートが収録されたカセットテープも存在していた。この古いカセットテープが、丁寧に保管されていたテープよりもはるかに良い状態で20年間も残っていたことに音響技師たちは驚いた。技師のクリストフ・スティッケルは、我慢強く、音楽的感性で、このカセットテープから本CDを「作り出すこと」で成功した。ノイズのないドルビーサラウンド品質とはいえないが、このコンサートの特別な音楽的雰囲気を捉えたオーディオ・ドキュメントであり、クライバーの解釈の躍動感を忠実に反映している。

クライバーはベートーヴェンを、いわば「文字通り」に解釈した。著名な指揮者たちとは異なり、彼は楽譜に記されたメトロノーム記号を忠実に守り、古典的な解釈で、一般的なテンポよりはるかに速いテンポで演奏している。その結果、現代の聴衆だけでなく、多くの人々にとって驚くべき解釈が生まれたのだ。それは、気取らず、生き生きとしており、ベートーヴェンの精神そのものを体験しているようだ。
(リリアン・クライバー)

そして、この10年後に、同じくミュンヘンはガスタイクで披露されたチェリビダッケの「田園」。こちらはクライバーの対極にある演奏であり、かつてエーリヒ・クライバーと正反対の演奏をしたフルトヴェングラーの重厚な世界が、一層練磨され、ほとんど人工的ともいえる正確さで再現されたような、唯一無二の演奏だ。
(チェリビダッケにあり、フルトヴェングラーにないものは、すべてのフレーズが、音楽のどの瞬間も、丸みを帯びるように尖がったところがない点だ)

「人間の精神は個体として不可分な存在であり、常に多数の現象に直面している。そして感知した対象を取り入れながら認知すると同時に、相関不可能なもの、相容れないものを排除する。このような人間の比類なき性状をサンスクリット語でエカグラータという。ドイツ語にはそれに匹敵する概念が見あたらない。この点に関しては英国人の方が一歩先んじていて、onepointedness(一点集中)と呼んでいる」。
彼の思考はアダージョで展開していく。彼の問いは大抵簡潔で、答えに充分な時間を与える。根気よく待つ。しかしセミナー参加者の中には、辛抱強くじっと見詰められるとかえって不安になる者もいる。セミナーはブルックナー的なとてつもない長さのものとなる。「誰も質問はないのかね? すべてを理解してしまったはずがない。それなら私が質問する」。こうして、多数のウルトラC・ピボットターン付き自由演技が始まり、フッサールやチェリビダッケの思考の世界へと招き入れる。

~クラウス・ウムバッハ/齋藤純一郎/カールステン・井口俊子訳「異端のマエストロ チェリビダッケ—伝記的ルポルタージュ」(音楽之友社)P308

チェリビダッケの解釈に違和感があるとするなら、あまりに磨き抜かれ過ぎているように感じる点だろうか(贅沢なのだが)。悪く言えば、音楽が、完全にチェリビダッケの思考の中に埋もれ、聴衆がそこに何かを加える余地がないくらいある意味「完璧に」仕上がっているのだ。

ベートーヴェン:
・交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」(1993.1.25Live)
・レオノーレ序曲第3番作品72a(1989.1.20Live)
セルジュ・チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団

ベートーヴェンはこうでなくてはならないと言わんばかりの、堂々として、悠揚たる河の流れのような自然讃歌、というより音の大伽藍。
クライバーの演奏が「溌剌とした」印象なら、こちらは内なる幸福感がじわじわと湧き上がるという印象。ここにこそ「慈愛」があるのだろうと想像できる(一点集中というより、本来の意味は無心、無我、無為ということだ)。

そして、どの楽章にも不思議な「静けさ」が横たわる。
(音楽は常に抑制された中にある)
第4楽章「雷鳴と嵐」のシーンですら静寂の中にあるのだ。

フルトヴェングラーは「無意識なナイーヴさと子供の純粋さで耳を澄まし、その耳で音楽を創っていくのです」。「彼は創造者」。「彼はバッハでした」。フルトヴェングラーは「現象の複合性」を聴き取る「耳」を持っていたという。「単なる耳というより、あらゆる随伴現象を聴くための精神的な耳を持っていました。そしてすべての現象が出揃うまで手をゆるめなかったのです。いつも出揃ったのでしょうか? いいえ。コンサートに満足していないことも多々ありました」。崇拝する偶像にある質問をした時の短い対話を彼はことあるごとに繰り返す。「博士、速さはどのくらいでしょうか?」そして巫師(ふし)の答えは、「それはどう聞こえるかによる」。このフルトヴェングラーの短い返答は後にチェリビダッケの信念となる。
~同上書P97

チェリビダッケにとってフルトヴェングラーは神だった。
(最晩年の演奏の質はいずれもフルトヴェングラーとはまったく異なるものだが)
(終楽章「牧人の歌—嵐の後の、快い、神への感謝と結びついた感情」もほとんど無情の境地で、これぞ「エカグラータ」を目指した、その極点だろうと思われる)

レオノーレ序曲第3番も、ライヴとは思えない精密さ(そして何という有機性。まるで生き物のような温かさ!)。
(実演で聴いていたら卒倒していたかも)

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