
キルステン・フラグスタートを聴くと、すべてがワーグナーのように聴こえる。
それは彼女の強烈な個性もさることながら、僕たちに刷り込まれた先入観のせいだろう。思い込みを外して。純粋に音楽を、音楽として聴ければより素晴らしいのだと思う。
実際、フラグスタート自身は、自分のことを平凡な家庭人だという。
私の人となりをもう一度はっきり言わせてほしい。つまり、私は芸術に携わっているとき以外は芸術家ではないし、芸術に携わっていないときには世界中でももっとも平凡な人間なのだ。私は、少しも神秘的ではないし、風変わりでもないし、難しい人間でもない。私はまったく平均的なノルウェー人で、われわれノルウェー人は、悪い意味で世間慣れしているようなこともなければ理解しにくい国民でもない。ノルウェー人は、非常に礼儀正しい国民であると思う。私の性格や生活のなかに、悪意のある動機や暗い秘密を見つけだそうとしても見つからないはずだ。これらのことは、女性歌手というものを魅力的で神秘的な女性と考えたがる人たちを失望させるかもしれないが、私は仕事を離れれば平均的な一人の女性でしかないのだ。
~ルイ・ビアンコリ/田村哲雄訳「キルステン・フラグスタート自伝 ヴァグナーの女王」(新評論)Pii-iii
確かに、素のフラグスタートは神秘的ではなく、また風変わりでもないのだろう。
人は他人を勝手に判断する。
それこそイメージが先行し、一人歩きする現代社会にあって、何事においても「正しくとらえられていない」のが人の常。「ありのまま」をとらえられる心眼を養いたいものだ。
ただひたすら音楽そのものに浸ろうではないか。
フラグスタートの心底から醸される情感が歌の内容をより際立たせる。
酸いも甘いも、楽観も悲観も、何と美しくも深い歌唱であることか。
梅津時比古は「冬の旅」にまつわる論文で以下のように書く。
ドイツ、オーストリアでは、死者は基本的に教会を通して墓に入ることになっており、墓は共同体として統制されている。たとえばドイツの墓地を散策していて、石ころひとつのような惨めな墓らしきものに出会うことがある。自殺者の墓である。自殺はキリスト教によって許されていないため、基本的に教会付属の墓地(Kirchhof)には入れず、山や村はずれの墓地(Friedhof)にひっそりと葬られる。19世紀にはより厳しく管理されていて、放浪者が共同体の墓地に葬られることは決してなかった。村はずれの墓も村の共同体の最終管理場所だったのである。人は死んだのちも時の権力によって管理されている。大量殺戮、戦争から、個人の死に至るまで、権力は死の操作と管理によって成り立っている。
~梅津時比古「ざわめく菩提樹 シューベルト研究I」(春秋社)P292
人間が生み出したルールによって成り立つ世界は、何と生きにくいことだろう。
(兎角に人の世は住みにくい)
しかしながら、その仮の世界を借りてこそ人は悟ることが可能であることを忘れてはならない。仮もまた真だということだ。
ちなみに、ドイツ語のGrabは、墓地ではなく、死者が埋葬されている個々の場所を指す。シューベルトの「アンセルモの墓で」とブラームスの「墓地にて」では、言葉のニュアンスが異なるが、死者その人への思いを馳せる「アンセルモの墓で」におけるフラグスタートの歌には、一層の力強さが漲るようだ。
ところで、個人的にお気に入りは、ブラームス最晩年の「4つの厳粛な歌」。童謡「こがねむし」に似る第1曲「世の人に起こることは」の重みは、死を目前にした作曲家の諦念を示すまさにフラグスタートならではの深遠なるもの。
歌手に寄り添うマッカーサーのピアノ伴奏も憂い満ち、絶品。

