
キャスリーン・フェリアーは、並外れた才能を持つ新進気鋭の歌手だ。豊かで深みのある声質、柔軟で幅広い音域、そして美しい音色と表現力は、現代では稀有なものだ・・・
(マンチェスター・ガーディアン紙、1942年)
キャスリーン・フェリアーの歌うブラームス晩年の音楽に心を揺さぶられる。
いかにも深遠な歌唱のうちに垣間見える哀惜の念とは裏腹に、実に大いなる希望の想念が宿る音楽に心が奪われるのだ。
「ヨアヒム教授、ヘルメスベルガーのように、有能な音楽家でありながらブラームスの素晴らしい作品を評価しない者が依然として多いことは不思議ではありませんか?」
「私の思うに、シュポアがベートーヴェンを理解し損なったことの方が、それよりもっと驚くべきことだ。というのは、モーツァルトはシュポアの理想であり、ベートーヴェンはモーツァルトの高められた存在だからだ。しかし、いつでもこうしたことはある。ブラームスの死後50年経っても、有能ではあるが彼の音楽を好まない音楽家は少なからずいるだろう。彼は、君に語ったように、『古い皮袋に新しい葡萄酒を入れて』いるからね。だがそんなことで悩む必要はない。そうした音楽家は、かつてのシュポアや現在のヘルメスベルガーのように偏っているのだ。音楽作りにおいて、彼らには何かが欠けている」。
~アーサー・M・エーブル著/吉田幸弘訳「大作曲家が語る音楽の創造と霊感」(出版館ブック・クラブ)P116-117
ブラームスの謙遜。もちろん尊敬するベートーヴェンへの謙譲ではあるだろう。
そしてまた、陰陽二気の世界にあって、絶賛する者があれば否定する者もあるのは当然のこと。シュポアもヘルメスベルガーも、評価する者たちと視点が違っているだけ。世界とはそんなものだということを忘れてはならない。
この太く低いコントラルトに、僕は初めて聴いたとき怖れを成した。
まるで冥界からの訴えかのように響く声は、現実のものと思えず、自身の夭折から、ほとんど浮遊霊のようにいまだ彷徨い、迷っているのかとさえ思ったくらい。
しかしながら、僕も年をとった。
少なくともこれらブラームスの歌曲たちは、何と美しいのだろう。
渋みのある音楽に、一層の渋みを重ねて、彼女はこれ以上ないほどの深い淵を描く。
ブラームスの作品91が染みる。
若き日の第1曲と最も脂の乗った名声確立後の第2曲の、各々格別なる完成度は、ブラームスが当初からその才能を十分に発揮していた証拠であり、フェリアーの歌はいずれも憧憬に満ち、切々と歌われるその音楽に感銘を受ける。
最晩年の「4つの厳粛な歌」は、生死の解決のできぬまま世を去ったブラームスが、友人などが次々と逝く中で、内なる恐怖を鎮めんと認めた遺書のような曲集だ(クララの亡くなる直前に仕上げている)。フェリアーの歌唱はここでも絶品。そしてこの音調は、約10年後のマーラーの音楽へと続くのだ。
ちなみに、「亡き子を偲ぶ歌」は、オランダ・フェスティバルでの一コマ。
キャスリーン・フェリアーは明らかに並外れた歌姫であり、ロンドン移住の前から卓越した叙情性とコントラストで高い評価を得ていた。移住は、何と大胆な決断であり、また何と素晴らしい機会であり、何と素晴らしい発想であったことか! 戦時中のロンドンは、彼女が求めていたような、情熱に溢れる30代の歌手がキャリアを築ける場所とは到底思えなかった。しかしながら、フェリアーはすぐに一流歌手としての地位を確立し、コンサートを重ねるたびに学びと経験を深めていった。
指揮者のサー・マルコム・エージェントの推薦により、フェリアーはコンサートエージェンシーのイプス&ティレット社のオーディションを受ける機会を与えられた。1942年7月9日の日記にはそのことが記されている。
ウィグモア・ホール午後2時。オーディションはうまくいった。ロンドンに住むことに決めた。ふう! バレエを観に行った。素敵だった!
1942年のクリスマスイヴにカーライルからハムステッドへ引っ越した後、彼女の人生はもはや後戻りできないものになった。彼女の決意は固く、そうして彼女のキャリアは幕を開けた。
(ポール・カンピョン)

