ベートーヴェンの執着心

人間の執着心というのは手強い。わかっていても愛着のあるものは簡単には捨てられず、しかしながらいつ使うのかと問われても答に窮する具合だから、むしろ本当は不要なもので、単に思い出としてとっておきたいものの場合が多い。後悔というのは過去にすがるようなものだろうし、将来への不安から残しておくものだとするならそれこそ重荷になる以外の何物でもないのに。
これまでは必要であったとしてももはや要らなくなったものは捨て、身軽になって新たなステージに立てばまた新しいビジョンが見えてくるというもの。それには何より自分自身を信じることと、頑張るのではなく感謝をもってすべてに接してゆくという謙虚な心持ちが大切。

2011年度の後半に入り、世の中の様々な動きや事件などを振り返ってみて、ひょっとすると今年は多くの人にとっていろいろな意味で変化の年になるんだろうなと考えた。想像もしない出来事が頻繁に起こる中で、そこには必ず学びがあり、それによって人々は成長し、次なる舞台に立てる。

執着心の根底は欲だろうが、欲そのものは否定しまい。それがないとそもそも人間じゃないから。そういう俗物根性が一方であってこそ、人の気持ちが本当の意味でわかるものだから。よって、背伸びは不要。気楽に、ありのままに。

楽聖ベートーヴェンは、その字が表すように、いわゆる晩年は悟りの境地に達していただろうことが容易に想像できるが、少なくとも若い頃、あるいは傑作の森と称する1800年代初頭の頃には俗物根性丸出しで、女性の尻を追っかけ、あらゆる執着にまみれていた時代もあったとみえる。例えば、聖なるヴァイオリン協奏曲。いかにも女性的で優しさと愛に満ちたこの音楽が果たして本当に敬虔なるものなのか・・・(冒頭のティンパニによる4つの音は「執着心」を表現したものにも聴こえるし)。

ベートーヴェン:
・ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品61
・ロマンス第1番ト長調作品40
・ロマンス第2番ヘ長調作品50
ユーディ・メニューイン(ヴァイオリン)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ルツェルン祝祭管弦楽団、フィルハーモニア管弦楽団

少なくともこのフルトヴェングラーがバックを務める演奏を聴く限りにおいて、あまりにも重くうねりがあり、慟哭の叫びとともにどろどろとした青年ベートーヴェンの「執着」の音なるものが僕には聞こえてきてならない。言ってみれば本来主役であるメニューインのヴァイオリンが脇役となり、その軽い音色によってフルトヴェングラー率いるオーケストラの演奏が引き立てられているといった印象。
そういえば、フルトヴェングラーも生涯女たらしで、実に何人も隠し子がいたという噂。音楽家にとって色恋沙汰は薬のようなものなのか・・・。そういう体験が芸術に反映されるとするならそれも必要悪(悪か否かは実際判断不能だけど)ということかな(笑)。

ちなみに、より静謐な趣を呈するフルトヴェングラー晩年の『ロマンス』は枯淡の境地。素晴らしい。


2 COMMENTS

EBJ

>これまでは必要であったとしてももはや要らなくなったものは捨て、身軽になって新たなステージに立てばまた新しいビジョンが見えてくるというもの。それには何より自分自身を信じることと、頑張るのではなく感謝をもってすべてに接してゆくという謙虚な心持ちが大切。

おっしゃるとおりですね。サン・テグジュペリは、「完璧がついに達成されるのは、何も加えるものがなくなった時ではなく、何も削るものがなくなった時である。」と言っています。思い悩む暇があったら「行動」あるのみですね。

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