音楽に境界はない

大岡昇平氏の言う「性交音楽」ワーグナーは20世紀前半のドイツ第三帝国において広告塔の役目を果たしたが、そもそもワーグナー自身が反ユダヤ主義を標榜していた時期があり、そういう意味では根本的に思想が一致していたことは否めず、ナチスに上手く利用されたというのも致し方ないこと。
歴史を大きな視点で捉え、それらのことはドイツという国がそもそも潜在的に持っていたコンプレックスというものに起因しているのでは、と考えてみた。ヨーロッパの中では辺境、田舎であったドイツという国は、どういうわけか18世紀以降音楽的に非常な発展を遂げ、いつのまにかイタリアを抜き去り一大音楽大国にのし上がった(あくまで私見だが)。そう、ワーグナーが「マイスタージンガー」でドイツ精神、ドイツ芸術を高らかに歌わせた背景には実にイタリアを含めたラテン諸国に対する劣等感が渦巻いていたのだと想像するのだ。それが20世紀になって、ヒトラーがユダヤ系の音楽や無調をはじめとした現代音楽を否定しだしたものだから、何百年と脈々と引き継がれる「自信のなさ」をかえって強めてしまったようで、何とも滑稽に思えてならない。少なくともベートーヴェンやシューマン、ブラームスを輩出した国であるならば完全な音楽大国なのだから、あえて「ドイツ精神」を歌う必要はなかったのだ。
シェーンベルクやヒンデミットを否定したことはまだしも、そもそもメンデルスゾーンやマーラーの音楽を禁止したことは致命的。あるいは「退廃音楽」と称し、当時の才能を持った音楽家を根こそぎ葬ったことも芸術的先見性のなかったことを認めざるを得まい。

ドビュッシーの音楽からマイルスの音楽の近似性を知り、そしてマイルスの音楽を聴いたときにドビュッシーを思い出すということを繰り返しているうち、アメリカの黒人たちが生み出したジャズという音楽に僕は本格的にはまり出した。いわゆるクラシック音楽がジャズに与えた影響は多大だが、逆に20世紀前半のクラシック音楽がジャズから受けた影響というのも計り知れない。ラヴェル然り、ストラヴィンスキー然り。

ナチスが最初に「退廃音楽」のレッテルを貼った作品、エルンスト・クシェネクのオペラ「ジョニーは演奏する」。今の耳から判断すると、どこが「退廃」なのか皆目見当がつかない。

クシェネク:歌劇「ジョニーは演奏する」作品45
ハインツ・クルーゼ(テノール)
アレッサンドラ・マルク(ソプラノ)
クリスター・セント・ヒル(バリトン)
ミヒャエル・クラウス(バリトン)
マリタ・ポッセルト(ソプラノ)ほか
ライプツィヒ歌劇場合唱団
ローター・ツァグロセク指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

おそらくジャズそのものが否定されたのだろうが・・・。
いやしかし、この音楽はわかりやすい。哀感を帯びた旋律あり、何とも愉快で踊りたくなるリズムありと、少なくとも1920年代ワイマール共和国の古き良きドイツの鑑たる傑作だと僕には思える。やはり敵国アメリカの音楽を単純に否定するという構図から発せられたものなのだろうな・・・。これはぜひとも一度舞台に触れてみたい作品だ。

ヒトラーが信奉した音楽と一刀両断した音楽。両方を連続で聴いてみるとそこには人間らしい実に俗っぽい(けれども人の心に訴えかける)旋律も存在する。やっぱり音楽に境界はない。

何事も狭い視点で捉えると損をする。「知らないこと」にこそ「お宝」が隠されているのでは・・・。
ワークショップZERO終了。今回も・・・、良かった。


3 COMMENTS

岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。

>湯浅学氏は、「ジャズはスケコマシの道具、つまり 性具」だと断言

なるほど!!この本は面白そうですね。読んでみます。
ありがとうございます。

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